国道特8号
起点 長崎縣上縣郡
佐須奈村大字佐護字北里
終点 長崎縣上縣郡
佐須奈村大字佐護字安保
延長 6.2 km
制定日 大正9年12月25日
改正履歴
全体図 Download : MR-8.trk (トラックファイル)
旧国道特8号(佐護湾付近)
対馬には終戦時までに軍事国道の数では最多の六路線が指定さた.順番で筆頭となった国道特8号は対馬の北部に位置する上県郡の旧佐須奈村内にある.

大正12年の大日記乙輯にファイルされている「軍事道路改修に関する件」によれば,この国道の推定経路は現在の国道382号から分岐する佐護から海岸部の佐護湾までの延長は5kmにも満たない短い国道となっている.

制定当時の大正9年には現在の国道382号となる対馬縦貫道は整備されてはいない.そもそも対馬縦貫道自体,自動車道として完成するのは戦後の昭和43年になってからのことで,開通したのは昭和43年5月12日のこと.

補足すると,国道382号に相当する軍事国道は,昭和15年になってようやく指定を受けたものであった.対馬縦貫道路という計画は明治から存在はしていたが,指定を受けるのは実に昭和になってからのこととなった.

昭和15年3月28日(内務省告示第百三十五號)に公布された路線改正によって付け加わった「特三十二號 長崎縣下縣郡巌原町ヨリ上縣郡豐崎村鰐浦二達スル路線」と「特三十三號 長崎縣上縣郡仁田村仁田ヨリ佐須奈村佐護二達スル路線」の二路線が,その対馬縦貫道路に相当するものになる.

言わずもがな,大正時代における対馬縦貫道は自動車用道路としては実態のないもであり,それでも後の将来に建設されることを前提とするように,国道特8号は制定当時には中途半端な佐護から分岐して海岸へと向かっていったことになる.

その国道特8号について.現在の国道382号からは,ほぼ1.5車線の幅員を確保する道が続く.佐護の集落を抜けると視界がやや広がり,ほぼ道なりを進むと,佐護湾に到着して軍事国道としてはことで終わる.棹崎砲台への道は,これより林道棹崎港線を進む.「林道」とはいいつつも,ハードな路面ではない.急勾配な道筋とはなっているが,今ではすっかりと舗装化されていて整備は行き届いている.

棹崎砲台跡
日本海海戦で対馬海峡の重要性が認知されたこともあって,朝鮮半島と対馬を結ぶシーレーンは戦略上,重要視される区域となった.その防衛を担ったのが「砲台」であり,この場合は突端の岬に「棹崎砲台」が建設されることになっていた.幾度の改良が加えられ最後の改造が行われたのは,昭和11年.当時は45式15cmカノン砲4門を備えるもので完成をみたのは昭和12年12月7日のことだ.

「45式15cm」という砲の大きさの実態は直径15cm,砲身長が6m75cmのサイズになる.その大きさを想像することがやや難しいが,その砲台を支えるために必要な台座の大きさが公園内にはモニュメントのように手が加えられている.

第三砲台があった場所は今では棹崎灯台となり,海を照らす.

一面に芝生も広がっていて,高所であることも忘れてしまうほどに一般的な公園になっているが,一度,海を望むと,その高低差に足が怯む.対馬海峡に睨みをきかす観測所もある.今となっては虚空を仰ぐ.


【参考・出典】
日本築城史 浄法寺朝美,原書房,1971
「軍事道路改修に関する件」 大日記乙輯大正12年,レファレンスコードC03011909800,大正12年
「対馬北部縦貫道路並父島南部に道路新設速成方の件」 大日記乙輯昭和15年,レファレンスコード C01007414000,昭和14年9月〜昭和15年4月
「対馬要塞棹崎砲台備砲工事実施の件」 昭和13年「密大日記」第6冊,レファレンスコード C01004453700

[2007.11.19作成]