国道特33号
起点 長崎縣上縣郡仁田村仁田
終点 長崎縣上縣郡佐須奈村佐護
推定延長 12km
制定日 昭和15年3月28日
改正履歴 なし
全体図 Download : MR-33.trk (トラックファイル)
国道特33号起点付近 (旧仁田村)
対馬島における軍事国道は大正から終戦時までに六路線が指定された.軍事国道の密集においても,単一の区域においては最多となる.その最後の路線となったのがこの国道特33号であった.昭和15年3月28日のことである.

起点の「上縣郡仁田村仁田」は現在の対馬市上県町樫滝を指す.ここから国道特8号の起点でもある「佐須奈村佐護」までが国道区間として指定された.

残念ながら,この国道の計画ルートがどこであったのかは,それを示す文献や資料は見つかっていない.唯一の資料でもある昭和15年の「対馬北部縦貫道路並父島南部に道路新設速成方の件」では,国道特8号と接続をさせる目的が記されているだけで,具体的な経路までは言及されていない.

また,昭和15年に制定されてから終戦までに竣工せずに終わったこともあり,それらの工事記録も残されていない.ただし,このときの計画路線に基づいた測量,道路設計が国道382号の該当区間に活かされたとされている.現在の国道382号は旧・仁田地区から北に直線的に進み「どう坂」を越えて佐護地区に向かう.推定されていることは,この路線が旧国道としての計画されたものであったと考えられている.

国道特33号のの成立は国道特32号にもかかわりがある.国道特32号でも見たように,対馬縦貫道路の計画に対して本腰が入れられたのは昭和14年になってからで,陸軍省の要請で厳原から豊崎村の豊砲台へ向かう道の改修速成願が内務省へ提示された.

本来ならば一路線の回答が返されるものが,内務省は昭和15年2月15日(内務省一四陸土第三号)で,対馬北部の道路としてニ路線の改修にかかる道路を国道として指定する案を提示した.国道特32号は上県郡の東海岸ルートの整備も考慮して豊崎村まで至るように設定され,新たに西海岸ルートの開削を目的とする国道特33号の提示がなされたものであった.


昭和15年当時の様子を記す旧版地形図(昭和10年修正測量)では,仁田から佐護までにつながる幅員1m以上の道路は存在していない.それ以下の幅に限れば,大きくは二つのルートがあった.一つは「どう坂」を越える道.そして,もう一つには仁田から越高−志多留と西海岸線を通り,ここから山間部へ進路を北に向け,中継地点の中山地区を通って佐護に至る道のもので,どちらかといえば後者側のルートが一般的には有用されていた.

地図上の距離からも明らかなように,「どう坂」ルートを開削することは距離の短縮を図れるもので,軍事国道の面のみならず将来的な対馬縦貫道路としての意味も担うものであったと考えることができる.

現国道382号 (ドウ坂)
それにしても,起点の選定については不明な点が残る.あまりにも中途半端な場所で,何故,「上縣郡仁田村仁田」にしなければならなかったのか判断の資料がない.

初めは起点は「上縣郡仁田村仁田」ではなく「上縣郡仁位村仁位」の誤りではないかと逡巡した.仁位村ならば,対馬縦貫道路の観点で説明が付くことが多いからだ.

例えば,戦後に国道382号(当時は県道)が整備されていく過程で,厳原から比田勝までの暫定ルートとして海上区間を有する箇所があった.鶏知地区の樽ヶ浜港から仁位港までを海上区間とすることで,当時建設中であった大船越から仁位までの代替ルートとなすものであった.

地図上でも陸上を回り込むのに比べてこの海上区間は浅芽湾を突っ切る航路で遜色がない.

また,遡ること大正7年には対馬縦貫道路を前提とする里道整備の提案が上県郡の各村長連名書として県もしくは国提出されている.この上申書でも「樽ヶ浜港−仁位港間」を航路とする路線を含んだ経路が示されている箇所がある(上対馬町誌 史料編).

上申書の中では具体的な対馬里道幹線として東海岸線ルートと西海岸線ルートがあり,東海岸線ルートについては厳原−鶏知−樽ヶ浜−大船越のメインルートを進み,前述の国道特32号に相当する路線を選定するもの対して,西海岸線ルートについては,厳原−鶏知ー樽ヶ浜までは東海岸線ルートと共通するものの,樽ヶ浜線・県道終点から「樽ヶ浜港−仁位港間を航海ニ拠ル」として,仁位村からは

「仁位,田(此間渡海)−三根(三根,女連),女連,久原,鹿見(仁田湾迂回)−(此間渡海利用ノコト),仁田,樫瀧,瀬田,佐護,深山,佐須奈(大地),佐須奈,河内,大浦「大浦,比田勝」,大浦ヲ終点トスルモノ・・・(後略)」

と経過地名が列記されている.この西海岸線ルートの概念は後の国道382号へと繋がるもので,対馬の中ではコンセンサスの得られた縦貫ルートであったと考えてよい.

このように「仁位村仁位」については,地理的なピボットポイントに成り得る要素がある.しかし,「仁田村仁田」となると,軍事的な施設,産業上の利点,交通的な要衝など,起点として特徴となるものは見出しきれていない.

いずれにせよ,この道は戦時下では竣工せず,コンセプトは国道382号へと引き継がれていくことになった.明治初頭から「対馬縦貫道路」として道路建設の推進が行われた道は,完成したのは昭和43年になってからのこと.計画から完成までは悠久の時間が流れた.


【参考】
上対馬町誌  上対馬町役場,1985
上対馬町誌(史料編)  上対馬町役場,2004
日本築城史 浄法寺朝美,原書房,1971
軍事道路改修に関する件 レファレンスコードC03011909800,大日記乙輯大正12年
対馬北部縦貫道路並父島南部に道路新設速成方の件 レファレンスコード C01007414000 ,昭和15年 「乙輯 第3類 第2冊 運輸交通」

[2008.01.02 作成]