国道特32号
起点 長崎縣下縣郡巌原町
終点 長崎縣上縣郡豐崎村鰐浦
推定延長 95 km
制定日 昭和15年3月28日
改正履歴 なし
全体図 Download : MR-32.trk (トラックファイル)
旧国道特32号(泉地区 万歳峠)
対馬の南北は長い.中心部である厳原から最北端の鰐浦まで,距離にして約100km弱.そして,その区間を結ぶ国道特32号も,延長では軍事国道計41路線の中でも最も長い.

国道特32号の終点である旧豊崎村・鰐浦は対馬の最北に位置し,隣接する豊地区には「豊砲台」が敷設された.対馬は島自体が一つの要塞となっていたために至る箇所に砲台が備えられることになったが,その中でも最大級の砲台が設置されたのが豊砲台であった.

そんな理由もあってなのか,この砲台跡はレンタカーを借りて付随してくる対馬の観光マップにも紹介されるほどに今では対馬の大事な観光施設となっている.

国道特32号は一つには豊砲台との連絡道路として見ることができるが,現在の国道382号と同一のルートではなかったことが昭和14年の当時の陸軍省と内務省との間での機密文章から見て取れる.

昭和14年9月6日に陸軍省から内務省に「対馬北部縦貫道路の道路新設速成」の伺書が出されれた.この書では対馬南北をつなぐ縦貫道路の新たな新設を要望するもので,陸軍省としての希望ルートは

「長崎県下県郡厳原町厳原ヨリ同上県郡豊ヲ経テ比田勝ニ達スル北部縦貫道路」

とした.厳原を起点とするならば,経由地がいきなり対馬最北の「豊」を経由するという不自然な要望にはなっているが,仮に起点と終点だけから判断すれば,陸軍省が望んだであろう国道というものは,あたかも現在の国道382号を思い描かせる路線には感じ取られる.

「軍事道路改修に関する件」より

考え方を変えれば,この昭和15年の段階においても,これほどに経由地を漠然とした要望しか出せないほどに対馬を縦貫する道路というものは存在していなかったことを物語っている.ほぼ20年前の大正10年の国道制定時と変わらない状況であれば,陸軍省の希望ルートは大正12年の公文書「軍事道路改修に関する件」での要望の重複となっていたことであろう.当時の書類には国道382号を彷彿とさせるような線が描かれている.

ここで改めて大正年間の旧版地形図で確認すると,まず対馬全体の測量がなされたのは大正元年のことで,第二回目の測量がなされたのは大正11年.これは1/25,000地形図として発行された.それらの地形図で対馬の道路事情というものを省みても,当時の南北縦貫道路というものは,厳原から始まって鶏知を通り大船越までしかなく,他の文献から見られる明治からの道路は変化はない.

大船越から先は1m未満の点線表記の道路は記されているが,基本的は山道に等しいもので実態として語ることはできない.つまりは上県郡から下県郡につながる幅員2mレベル(いわゆる一車線道路)というもはない状況であった.

昭和10年に修正測量が行われた後も概要は変わっていない.それほどに対馬の道路行政は進むものではなかった.陸軍省からの要望が漠然とならざるえなかった理由もここにある.

旧国道特32号 (比田勝〜舟志間)
しかし,昭和14年の陸軍省の要望に対して出された回答は意外な結果となった.

回答は半年後の昭和15年2月15日(内務省一四陸土第三号)で戻されたが,その中には内務省が長崎県および対馬要塞司令官と協議した結果,次のような経過地が候補として挙がった.

「下県郡厳原町ヨリ同郡鶏知村,船越村,仁位村曾,上県郡峯村佐賀,同郡仁田村仁田,琴村舟志,豊崎村比田勝,豊経由同村鰐浦ニ達スル路線」

終点は比田勝から鰐浦へと変更になっているが,陸軍省の要望どおりに「比田勝」も通り,「豊」も通過する路線選定になっている.

詳細に見ると,厳原から上県郡までに入るまでは国道382号の前身となる道路をなぞるルートとなっているが,旧仁位村からは現在の国道ルートから分岐する.ここから東へと向かい,「曽」の地区に出て,そこから対馬の東海岸を走る県道39号(上対馬豊玉線)を踏襲するルートが国道特32号のそれに相当する.

また,別途に仁位村から佐須奈村へと繋がる道は続く国道特33号として新設することが提案された.内務省としては大幅な譲歩ともなる.

この国道特33号が後の国道382号へと譲り受けられていくことになるが,陸軍省側からは当初一路線の新設に対して二路線の回答があったことは陸軍省としても悪い話ではない.この内務省からの案に陸軍省は同意を得て,一ヶ月後には正式に内務省告示で国道特32号が発令されていることを考えれば,このルートで合意されたと見るべきであろう.

その国道特32号も完成することはなかった.戦後の1/25,000地形図の改修測量は昭和48年前後にかけて行われているため戦後からの時間差がありすぎるが,旧米国陸軍地図局(U.S. Army Map Service)の作成した地図(通称:AMS)では終戦後9年目の昭和29年の地形図が残されており,当時までに完成していた区間が把握できる.比田勝を中心として鰐浦から舟志までがかろうじて国道特32号として整備されていたことになろうが,この他の区間は事実上,未完に終わった.

Series L506, U.S. Army Map Service, 1954-
NI 52-7 Tsushima


そのような連絡路もない時期の昭和4年から豊砲台の建設は始まった.備砲取付が完了するのは昭和7年12月.翌年の5月に試験射撃を終えて対馬要塞へと引き渡された.逆に,この豊砲台が先に運用されたことが,対馬縦貫道路の速成機運にも繋がっていたのであろう.

落土隧道 豊砲台へのトンネル
比田勝から豊へ向かう県道を走ってみた.今ではさらに改良されて二車線を確保する道が多くなっている.当時の原型を留めていることはない.

豊砲台へは,この県道から外れて脇道を進む.そして,その道に時間を留めたかのようなトンネルがある.この砲台のために作られたタイル張りの一車線のコンクリートトンネルとなっている.

名は落土隧道,昭和9年に竣工した長さ56mのトンネルだ.扁額なども取り付けられていないが明らかに戦前に作られた意匠は一目で判る.

長さは50m程度であるが,幅員が狭いこともありアスペクト比からの錯覚であろう,延長は100m前後にも感じる.

歩いてみると,風がいやに吹き抜ける.対の坑口を抜けると前方には湾が広がる.風の源もここにあった.

この落土隧道の先で道は突き当たって終わりを迎えるかと思うと,案内標識に導かれるようにして細い林道を走らされる.やがて車が転回できるほどに広がりがあったかと思えば,そこが砲台施設の正面となる.

岩盤を一部を無理やりに穴を抉じ開けてコンクリートで打ち固めた要塞は,今では半世紀以上の風雨に晒されて,粉々に散りばめられている.陽のあたる日中でさえ,全体的に薄暗い.あたかも独房群の骸のようだ.

豊砲台 砲座跡
足元の凹凸でさえたどたどしい中を進んでいくと,天から降り注ぐ光がピラーのように立つ.瞳を上げると,黒い円弧を描く中に透き通るような青空.ここが四十五口径四十センチ加農砲の砲座であるが,さながら吉野窓に似た視覚効果が豊砲台を強く印象付けさせる.

この砲台の起源については諸説ある.一つはワシントン条約の批准のために戦艦であった「赤城」を航空母艦へと改造した折に取り外されることになった主砲を転用したというもの.もう一つには大正末期から建造中であった戦艦「土佐」が同じくワシントン条約によって廃艦の決定がなされ,その折に転用されたというもの.はたまた,土佐の主砲が戦艦「長門」へと引き当てられ,おこぼれの「長門」の主砲を豊砲台へと移転したもの.

どの説が正しいかは専門に任せるにしても,少なくとも共通しているのは,今考えれば日本の国力に見合った評価であったワシントン条約の批准によって廃棄されることになった戦艦級の主砲が据えられたということになる.

海軍で捨てるのであれば陸軍で引き取ろうという安易な背景であったのか.それとも明確な戦略に基づいて対馬へ配備とされたのか.その辺りの意図と採算は取れるものであったのか・・・.

対馬の砲台施設は,明治時代の第一期から昭和までの第三期までにわたって,数多く造られてきた.全てが残されている訳ではなく,また総てを「資産」として残す必要もない.ただ,その中でも豊砲台が単純に人を引き寄せるほどに砲台跡の無機的な巨大さを,視覚的に最もよく映し出している.

【参考】
日本築城史 浄法寺朝美,原書房,1971
軍事道路改修に関する件 レファレンスコードC03011909800,大日記乙輯大正12年
対馬北部縦貫道路並父島南部に道路新設速成方の件 レファレンスコード C01007414000 ,昭和15年 「乙輯 第3類 第2冊 運輸交通」
要塞築造工事開始時期期間等の件 昭和4年「密大日記」,レファレンスコード C01003860500,昭和4年
対馬要塞豊砲台建築工事実施の件 昭和4年 「軍事機密大日記 第2冊 3/4」 レファレンスコード C01002567800,昭和4年

[2007.12.29 作成]