国道特14号 | |||
起点 | 鹿兒島縣大島郡西方村大字久慈 | ||
終点 | 鹿兒島縣大島郡西方村大字西古見 | ||
延長 | 11.2 km | ||
制定日 | 大正9年12月25日 | ||
|
|||
改正履歴 | 昭和17年1月24日 起点変更: 鹿見島縣大島郡西方村大宇篠川 |
||
|
|||
全体図 | Download : MR-14.trk (トラックファイル) | ||
路線番号では,この項で紹介する国道特14号を筆頭に,国道特15号,国道特16号,国道特28号,そして国道特38号と続き,その路線選定を概観すればいずれも奄美要塞の中枢となる大島海峡の防衛に関わる位置づけとなっている. 大正9年の制定当時,国道特14号は起点を西方村大字久慈として,終点を西古見とした.奄美大島の南岸の主要地の古仁屋とは,それに続く国道特15号を介してつながりを持つようになっている. ただし,大正9年の指定の段階では,国道特14号と国道特15号は直接に接続しておらず,篠川から久慈までは断続する. 国道特14号の機能的な目的は,終点に設置された西古見砲台へのアプローチ道路となるが,起点が国道の制定時に「久慈」となった経緯については,なお不明な点となる. 大正8年4月8日に公布された「道路法」は,日本で初めて「国道」の規定がなされた法律で,その第十条では,国道の定義として以下のようになっている. 第十條 國道ノ路線ハ左ノ路線ニ就キ主務大臣之ヲ認定ス 一 東京市ヨリ~宮、府縣廳所在地、師團司令部所在地、鎭守府所在地又ハ樞要ノ開港ニ達スル路線 二 主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線 軍事国道は,その第二項と係属しているものであるから,起点,もしくは終点において軍事目的なる性格を有していれば良いことになるが,軍事国道41路線の起点・終点のパターンにおいては,おおよそ一方が主要街道もしくは主要市町村と結ばれるように選定されている場合が多い. そのような分類分けで考えていくと,国道特14号の起点には軍事的な拠点であった要素を見出していくことになるが,資料上でたどると大きく2つの施設が浮かび上がる. 一つは明治30年に本土と沖縄,さらには台湾とをつなぐ海底電信線の敷設が行われたが,その中継所として久慈電信局が建設されたことがある. もう一つは,明治30年4月における要塞海軍区の選定における資料から,久慈港が第三海軍区の候補に挙がっており,要港としての重要性があった. いずれも明治30年と日清戦争後の軍備増強の流れを汲むものであって,大正9年における制定時は状況が変化していると考えられるが,情報基地としての側面,要港としての側面があったことが軍事国道の起点の選定において影響があったようにも考えることができる. なお,大正9年12月25日の制定当時,この国道特14号と国道特15号は篠川-久慈間で断続していたが,昭和17年1月24日の内務省告示第27号で国道特14号の起点側が久慈から篠川まで延伸されたことによって,東西両端は一本化した. 久慈から西古見までは20km弱ながら,一部には断片的に1車線の道が残される. この西古見集落より先が,軍事国道としての名残であって,時間の流れを留めている. 弾薬庫,兵器格納庫跡まで進むと標高をあげながら,県道は高巻いていく. そして大島海峡を望む景勝地に,砲台の観測所跡がある.僅か数坪にも満たない敷地に外海を望む一筋の開口部のみが印象的だ. この砲台も,実戦で火砲を開いたのは,ただ一度だけという. 日清,日露戦における軍備配置をそのままに引きずってしまったが故に,インフラ整備として道路も「国道」の指定の対象となったが,その後の戦局の展開で,この要塞は時代の流れとかけ離れた無用のものとなったことを感じさせる話ではないだろうか. 【参考・出典】 鹿児島県大島軍国道速成に関する件 海軍省-公文備考-昭和10年-S10-107,Ref.C05034502800,昭和10年 軍事道路改修に関する件 陸軍省−大日記乙輯−T.12〜7−25,Ref.C03011909800,大正12年 軍事上必要なる道路改修の件 陸軍省−大日記乙輯−T.14〜8−26,Ref.C03012148900,大正14年 長崎県東彼杵郡彼杵村早岐町間府県道を国道に認定に関する件(2) 海軍省-公文備考-昭和10年-S10-108,Ref.C05034504600,昭和10年 西古見集落誌 西古見慰霊建立実行委員会,1994 [2006.09.15作成] [2007.01.06改訂] 断面図挿入 |