国道特11号
起点 長崎縣下縣郡嚴原町
終点 長崎縣下縣郡豆酸村
延長 28.0 km
制定日 大正9年12月25日
改正履歴
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旧国道特11号(豆酸地区)
大正10年度に制定された中では,国道特11号は対馬島における第四番目の軍事国道となる.起点は対馬の中心部・厳原に始まり,東海岸を周回しながら終点の南端の豆酸村(つづ)までの道路が国道として指定された.

豆酸村の突端にある豆酸崎.ここには昭和14年に竣工した豆酸崎砲台が据付られていた.昭和11(1936)年11月に工事が着工され,備砲の取り付完了までに3年近くの時間を要したとされる.15センチ連装加農砲がニ基,当時の南岸部防御の警戒に努めていた.

当時の公文書・「対島要塞豆酸崎砲台備砲工事実施の件」に記載されている地図には岬までの「軍道」と,東海岸には桟橋とそこから傾斜を登る軌道が描かれている.

ここで資料に描かれている「軍道」というものは当時の豆酸村からの資材運搬用道路であって国道特11号としての「軍事国道」ではない.昭和14年の資料である,この書類には備砲工事の工事資材についてまとめられいるが,そこには資材運搬は主に港から陸揚げされて調達された.

その意味では,「軍道」とはされつつも資材運搬にさえ不向きなほどの道で,また資材も船で運ばなければならないほどに豆酸岬までの道路がこの昭和14年にはなかったことになる.

砲台跡は昭和62年3月に建設された豆酸崎灯台となっており,砲が据え付けられていた「砲塔井」も灯台の基礎の一部となっている.周回する散策路には錆びた重厚な鉄扉が口を開ける掩灯所などが藪の中に佇んでいる.公園というほどまでには賑わいはなく,海釣り客が立ち寄る程度の場所となっている.

豆酸崎砲台 (対島要塞豆酸崎砲台備砲工事実施の件より)

厳原中心部から豆酸までは,現在,長崎県道24号(主要地方道厳原豆酘美津島線)が伸びる.厳原を出ると久田から先を地形図で辿ると難解地名で呼び名も面白い「嗚呼難儀坂(あなぎさか)」がある.ここは,現在は1994年の新久田トンネルの完成も相俟って,二車線の改良が加えられた道路になった.このトンネルを越えると豆酸地区までの道路の実態は山間部特有の1.5車線の道が延々と続く.

この県道を豆酸地区まで走ると特徴的な3つのトンネルを通過する.厳原側から久和隧道(昭和17年竣工),安神隧道(昭和14年竣工),そして浅藻隧道(昭和13年竣工)と並び,いずれも延長は300mにも満たないものであるが,類型の馬蹄形の抗口をなして一直線に延びる.近年の近代遺産ブームもあり,これらの3つのトンネルは九州地区の近代遺産にノミネートされている.

トンネルの竣工時期といい,「多分」,この道が国道特11号が計画されていた段階では完成路であったのだろうと考えることができる.

豆酸崎砲台(掩灯所)跡
このように思わせるのも旧版地形図での道路が大正10年の指定された段階では厳原から豆酸までに現在のような車が走れるほどの道路幅を確保した道は描かれていないからだ.

この対馬の最初の測量は大正元年になされ,大正11年に第一回目の修正測図が行われているが,国道が制定された時期の旧版地形図を見る限りは,あるのは点線で示される幅1m未満の小道で,地図上で辿ることですら覚束ない.

昭和10年に第二回修正測図が加えられた旧版地形図おいてようやく進展が見え,厳原の隣集落の久田から先の旧久田隧道までは道路幅3m以下の実線で示されるようになった.しかし,その先は未だに幅1m未満の点線になっている.

国道指定から既に15年が経とうとしている段階で,尚,開通する気配は見られてない.このように見ると,国道特11号は指定当時から完全な新設路線を前提とした可能性が高い.

このような地形図を参照するにあたって気をつけなければならないのは,特に軍事機密性が高い地区においては,意図的にブラインドが施されていることはよく知られている通りだ.対馬も当時は島全体が対馬要塞地区となっていたため,そのような考慮を加えられた可能性は否定できない.

この機密保護がなされたのは,名目上は昭和12年に公布された軍機保護法(昭和12年法律第72号)以降とされるが,このようなブラインドも軍事施設関連の所在を隠蔽する方策としてのものであるが,道路建設の場合においては,その対象となったのかは確証が取られていない.

一方で,公文書側から辿っていくと,国道制定から6年が経った昭和3年1月19日の段階で当時の長崎知事・佐上信一から「特十一号国道改築ニ関スル件上申」の上申書が海軍省(岡田啓介大臣)へ提出されている.この伺書には,国道特11号の道路設計は完了しているが予算の目処が立っていないため,「配慮」を願い出るものとなっている.

特第十一号国道改修計画図

佐上信一は元々は内務省の官僚であったことからも,道路行政を一手に担う内務書に直接アプローチをかけることもできたと思われるが,この件に関しては海軍省へ上申した.そのようになると,国道特11号は海軍主体で要望されたかのような印象を抱くのであるが,この書類は2月13日になって次官レベルで海軍から内務省および陸軍省へと伝達されていっている.

一方,偶然にも同時期の長崎県知事から海軍省へ上申した2日後の1月21日に陸軍省から内務省に対して,この特十一号国道を含む軍事国道速成のための予算を求める要望書を提出している(陸普第二〇一号).

陸軍省からの要望書は奄美大島における軍事国道三路線の改修を促進する鹿児島県側からの動向を基にして作成された意図が強いものとなっているが,他にも対馬における特8号と国道特11号,また,後に軍事国道へと変換される県道(厳原−鶏知−佐護−豊),そして父島の特19号が含まれる記載となっている.

いずれも,離島の軍事国道という点では一致しており,大正時代に制定された段階での「実態」のない道路が特に離島では著しかったことの表れであって,陸軍省としても国道特11号に限らず,改修の促進を考慮せざる得ない状況であったと考えられる.

しかし,この昭和3年の段階では少なくとも国道特11号については内務省からの予算の取り付けはできずに終わったようで,このため,長崎県知事からの同様な要求は昭和4年(1月31日)および昭和5年(6月6日)と,毎年のように続けられていっている.

安神隧道 (昭和14年竣工)
長崎県の具申に対する軍部側の意識には海軍と陸軍とで差があったようで,昭和4年の上申書に対しては,海軍省からは「是非とも必要というほどの問題ではない」とし,明らかに陸軍省側に下駄を預けるコメントを返している.

両省の総意であれば内務省としても本腰を入れるところであろうが,この温度差が国道特11号の工期を遅らせた一因にもなっていた.

また,昭和4年という年は関東大震災(大正12年),昭和恐慌(昭和2年)に続く世界恐慌が襲った年でもあり,日本では最もデフレに喘いでいた時期にも重なっていた.最悪の時期に最悪の要望をしていたことにもなる.

昭和4年の上申書では,厳原からの道は「幅員として二尺内外(70cm前後)」で「人馬ノ交通絶体不可能ト謂フモ憚ラサル実情」と訴えていることから,旧版地形図における1m未満の幅員を示す点線表記と違わない記載となっている.少なくとも対馬要塞における軍事機密的なブラインドは施す必要もなかったほどに昭和10年の段階では軍事国道の改修は進められていなかったことになろう.

このような背景を辿るならば,改めて上記の3つの隧道がこの国道の工事をなした時期を証言する生き証人となっていることに気づく.しかし,久和隧道が最も遅い昭和17年に竣工したことからしても,軍事国道としての供用は仮に完成していたとしても遅すぎた感がある.

【参考】
日本築城史 浄法寺朝美,原書房,1971
厳原町誌 厳原町誌編集委員会,1997
特11号国道改築に関する件 昭和03年「密大日記」,レファレンスコードC01003828200,昭和3年2月13日
第189号 3.2.13 特11号国道改築に関する件 レファレンスコード C05034502900,昭和10年
官房第2248号 5.6.28 特11号国道改築に関する件 レファレンスコード C05034503100,昭和10年
対島要塞豆酸崎砲台備砲工事実施の件 レファレンスコード C01007724800,昭和14年
軍事道路改修に関する件 レファレンスコードC03011909800,大日記乙輯大正12年
対馬要塞竜ヶ崎第2砲台(単道)増築工事延期の件 レファレンスコード C01004211500