国道45号 | |||||
起点 | 東京府 | ||||
終点 | 横須賀鎮守府 | ||||
延長 | 61.2 km | ||||
制定日 | 明治20年7月8日 | ||||
改正履歴 | なし | ||||
全体図 | Download : Meiji-R45.trk (トラックファイル) | ||||
明治国道45号はその編入路線で,東京と横須賀鎮守府とをつなぐ路線となる. ルートは横浜までは明治国道1号と重複し,現在の桜木町駅付近から明治国道1号から分岐して単独区間となる. 横浜と横須賀とは現在は国道16号で結ばれている. このことから,明治国道45号は現在の国道16号と対比される路線となっている.しかし,制定当時の路線図と重ね合わせると,追浜地区の一部の区間を除き,現在とでは大幅に異なる. 1)横浜−金沢間 今となってはその大岡川は首都高速へと姿を変え,水の流れは車の流れへと変化を遂げた.吉田橋も当時の面影を残すものはなく,ただ首都高を跨ぐだけの味気ない橋となってしまっている. この吉田橋から伊勢崎町へ抜けていく馬車道が当時の国道45号となる.現在の国道16号は,この馬車道と並行し,阪東橋を過ぎてから吉野町で左折して堀割川に沿って下るが,明治国道の制定時はそのまま鎌倉方面へ直進して進み,現在の神奈川県道21号(鎌倉街道)のルートを辿って,上大岡に繋がっていった. 上大岡では,江戸時代にはいわゆる「金沢道」もしくは「浦賀道」と呼ばれていた東海道・保土ヶ谷宿からの脇往還が弘明寺で合流し,現在の「関ノ下」の三叉路で鎌倉と横須賀へ分岐していく重要な拠点となっていた.横須賀方面への「浦賀道」は,現在は県道22号(横浜伊勢原線)となっている. 国道45号の大岡以南はこの街道が国道に指定されたものとなる.なお,「浦賀道」は明治12年6月11日から国道制定に至る明治20年までは仮定県道「浦賀往還」として指定された. 上大岡から金沢まで当時のルートは途中の杉田地区,能見台地区の付近一帯が大規模な宅地開発によって,完全に原形を留めないものとなっている. 2)金沢−横須賀間 六浦は,現在でも環状4号との交点となっている要所で,古来も朝比奈を経由して鎌倉とをつなぐ重要な連絡路であった. 明治の初期の頃は,平潟湾の入り江が深くまで入り込んでいたことから,現在の国道16号との交叉点である「六浦」交叉点が当時の分岐点ではなく,それよりも環状4号を鎌倉側に向かった「西六浦」交叉点が岐路となっていた. 国道45号はこれより,現在の県道205号(金沢逗子線)側に折れて,侍従川を渡ってすぐに左折し,現国道16号の六浦東で現国道16号と交わる. ここから追浜を抜けて船越までは凡そは現国道16号に沿ったルートで南下していた.船越からは,現在は東芝ライテック(株)の工場へ向かうようにして左なりのカーブを描くが,明治制定時は,現県道24号(横須賀逗子線)へ折れて,宅地造成化されている「港が丘」を越え,盛福寺へ抜けて田浦へと繋がっていた. 田浦から横須賀までも,当時はトンネル群でつながった現国道16号のルートではなく,起伏に富む山間部を経ていた.これは「十三峠」を越える国道45号の中でも最も厳しいルートで,現在は一部ハイキングコースとなるほど急峻な道のりとなっている.十三峠からは三浦安針の墓を通り,一気に横須賀の町へ下る. このように,制定当時は,まだ自動車のみならず軽車輛でさえ通行困難な状況で国道を指定するものであった.トンネル群で貫通させ,横浜との距離を心理的にも近づける改良は大正から昭和にかけてのことになる. 【参考・出典】 横須賀市史 横須賀市,1957 横須賀市史 横須賀市,1988 横浜国道二十年史 建設省関東地方建設局横浜工事事務所,1981 金沢の古道 横浜市金沢区役所,1984 田浦をあるく 田浦地域文化振興懇話会,2005 田浦町誌 三浦郡教育会,1928 港町・横浜の都市形成史 横浜市企画調整局編,横浜市企画調整局,1981 [2007.03.25作成] |