国道1号
起点 東京府
終点 横浜
延長 33.6km
制定日 明治18年2月24日

改正履歴

全体図 Download : Meiji-R1.trk (トラックファイル)
現国道133号 弁天橋
明治18年に日本で初めて国道に「路線番号」という概念が導入され,その「明治国道」で国道1号となったのは,日本橋から横浜(港)を結ぶものであった.

そのルートは,日本橋からは現在の横浜駅までは東海道(旧道)となっている.

現在,東海道は国道15号(第一京浜)となり,横浜市西区の青木町で第一京浜は第二京浜の国道1号と合流する.

旧東海道は,この交叉点からJR線を越えて県道83号(環状1号)に沿うルートで西側に回りこんでいるが,これは明治初頭まで内陸側に海岸線が押し寄せていたからに他ならない.

現在の横浜駅一帯は「平沼」という湖沼が拡がっていていたが,鉄道の建設に伴って埋め立て工事が進められ,その結果として「平沼」は消えることになった(相模鉄道の駅名などに「平沼橋」という名で残されている).

地形図1/20,000(明治39年測図) 地形図1/25,000(国土地理院地形図閲覧より)

「汽笛一声」で知られるように,明治5年に新橋-横浜間に鉄道が開通したことで日本の鉄道史が始まる.その横浜駅は,現在の桜木町駅に位置する場所に導かれた.

明治20年になって国府津まで東海道線が伸びていくが,この時,横浜駅でスイッチバック方式で走らせるものであった(スイッチバックでレールが走っていた場所は,まさに現在の国道1号の部分).明治21年には保土ヶ谷駅と神奈川駅とを結ぶバイパス線が設置されることになり,上記のような地形図の配置となった.

「神奈川駅」から「横浜駅」まで間の埋め立て地は完全な埋め立てではなく,「月見橋」,「万里橋」,「富士見橋」の三橋が架けられているように横浜湾と平沼とは水流の流れは堰き止めていなかった.なお,上記の三橋のうち,「万里橋」は現在でも残されている.

この埋立地は高島嘉右衛門の私財を投じて埋め立てられたことから,「高島町」の名が付けられることになった.この「高島町」には鉄道のほかに,それに並行して海側に一本の道が設けられているが,この道こそ国道1号であったと推定される.

明治国道は軍事施設を除き,開港場もしくは県庁を終点とする性格のものであったから,明治国道1号の残りの区間は,旧横浜駅から県庁および横浜港(現在の大桟橋)を結ぶ道となる.

明治18年にはまだ横浜港には現在のような桟橋がなく,「象の鼻」と呼ばれる防波堤に囲まれた大型船は接岸できないほど小さな港であった.明治17(1884)年に発行された「横浜区全図」(神奈川県立図書館所蔵)の地図には県庁の向かいに「西波止バ」とかかれた先に「象の鼻」が可愛らしく描かれている.

大桟橋が整備されたのは明治27年になってからのことである.

明治国道1号は,桜木町駅から大桟橋までは現在の国道133号がほぼそれに準じているものとなり,桜木町駅から弁天橋を渡り,県庁および港へと向かう道は当時の地形図と照らしあわせても大きく違えることはない.

今となっては,港国道の一つである国道133号が明治時代には国道1号の栄冠があったことすら信じられるものではなくなっている.

多くの人は日本を代表する道を訊ねられたならば「東海道」を連想し,また「東海道」=「国道1号」となっていることに不自然さを感じない.それだけに,明治国道の第一番目の国道が「東海道」ではないことに,いささかの不自然さを感じることになる.

そもそも,「国道」の制定は,これに遡ること11年前の明治9(1876)年のことだった.この段階では「路線番号」の形式ではなく,路線の性質に応じて「一等」,「二等」,「三等」という三段階の「等級」に分けたグレード制であった.その区分は,

 一等 東京より各開港場に達するもの
 二等 東京より伊勢宗廟(伊勢神宮)及び各府各鎮台に達するもの
 三等 東京より各県庁に達するもの及び各府各鎮台を拘連(連絡)するもの

とされ,時の明治政府が優先順位として国道として重きを置いたものは「開港場」であった.

「開港場」というものは,安政5(1858)年6月19日に批准した日米修好通商条約において「条約港」として指定した港で,「神奈川港(横浜港)」,「長崎港」,「箱館港」,「新潟港」,「兵庫(神戸港)」と,明治政府が樹立されてからの慶応4年7月15日に新たにが加えられた「大阪港」を含む六港を示す.

すなわち,明治9(1876)年の政府首脳は,日本の「道路」というグランドデザインを描く上で筆頭に挙げたものは,外国との交易の窓口となる開港場を重要視したことであった.

「日米修好通商条約」といえば,日本の教科書の中では幕末の尊王攘夷運動を巻き起こし,さらには「安政の大獄」という幕末動乱の引き金となった「悪しき不平等条約」として刷り込まれているが,その尊王攘夷運動の中核となした薩摩・長州の人脈が跋扈する明治政府が旧態の江戸幕府の首脳が結んだ条約であったものでも,新たに国道を制定する上で,第一の優先順位に定めたことは注目に値する.

一方で江戸幕府が整備した「五街道」なるものは,当時の明治政府にとっては「国道三等」の位置づけとした.「東海道」は東京と大阪港を結ぶ路線に該当することから「国道一等」となったが,「東海道」であるが故に「国道一等」となった訳ではなかった.

明治9年の等級(グレード制)は,このようなコンセプトで立案されたものであるが,明治18(1885)年の「路線番号制」でも,グレード制のコンセプトをそのまま引き継いでいることが「国道表」の路線番号の付与のパターンから判る.

日米修好通商条約の締結から既に27年が経過しているのにも関わらず,路線番号制においても,あくまで「開港場」を明治政府は重要視した.

ここまでになると,明治政府が重要視したのではなく,外国からの圧力によって重要視にさせられたようにも感じさせるものがある.

【参考・出典】
横浜国道二十年史 建設省関東地方建設局横浜工事事務所,1981
横浜港の七不思議 田中祥夫,有隣堂,2007

[2007.03.25作成]
[2007.10.05改定]