国道33号
起点 高知県高知市
終点 愛媛県松山市
延長 122.4 km
重要な経過地 高知県吾川郡伊野町 同県高岡郡佐川町 同県吾川郡吾川村 愛媛県上浮穴郡柳谷村 同郡久万町 同県伊予郡砥部町
指定区間 高知市本町五丁目百四十四番から松山市二番町四丁目七番二まで
国道33号 仁淀川橋

高知と松山を結ぶ道路は太古の大和時代から久万官道(662年)として早くから開けていたことが知られている.藩政時代においても藩政時代松山街道・土佐街道として機能していたが,この路線が国道に昇格するのは,後述する昭和20年になってからのこと.

明治になってから,本格的な道路改修が始まる.その先駆けとなったのが四国新道.明治19(1886)から始まった道路整備ながら,香川県財田村出身の大久保ェ之丞によって「私財」を投じて進められた経緯がある.

これは香川県丸亀を起点として多度津・金蔵寺・琴平・池田・大杉を経て高知に至り,さらに,これより西進して佐川・三坂峠を経て松山まで達する総計270kmの路線であった.

この四国新道のプロジェクトは明治27(1894)年までかかっているが,この事業は当時の道路規格にしては画期的な広い幅員をなすものであったとされる.

大正9年4月1日に告示された府県道の認定によって,松山と高知を結ぶ県道松山高知線として認定を受ける.この路線が国道に昇格したのは終戦直前の昭和20年1月18日(内務省告示第1号).この時に国道23号となる.戦後の道路法の施行に伴って昭和27年12月4日に一級国道33号となった.

しかし,この国道の最大の難所は浮穴郡久万町にある三坂峠(標高720m)の峠で,これは昭和42年になってようやく改修を終えた.これより,国道33号の利便性は一気に高まることになる.

安徳天皇:伝説の四国逃避路

横倉山からの越知町

文治元(1185)年3月24日,下関・壇の浦の合戦において平家は滅亡した.何よりも悲劇であったのが,まだ8歳の安徳天皇が建礼門院の母である二位尼(平時子)の懐に抱かれながら入水.そのまま海の藻屑となって,短い命を閉じたとされる終焉.そのことを伝えた『平家物語』,

『・・・山鳩色の御衣にびんづら結せ給ひて、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合せて先東を伏し拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念佛有しかば、二位殿やがて抱き奉り、「浪のしたにも、都のさぶらふぞ。」と慰奉て千尋の底へぞ入給ふ。悲き哉、無常の春の風、忽に華の御容を散し、無情哉、分段の荒き浪、玉體を沈め奉る。』(平家物語)

と,安徳天皇が恭順なまでに死を受け入れる様子が記されている.

平清盛の娘であり安徳天皇の母である建礼門院も,入水を遂げて吾が子の後を追うが,源氏の兵によって救出され,余生を京都・大原で過ごすことになったことも広く知られている.

果たして安徳天皇を入水させる必要があったのか・・・.平家一掃を期する源氏にしても天皇を葬ることは目的にはしてはいなかった.例え,平家の血を受け継ぐ天皇とはいえ,死罪一等は確実に間逃れることになることは明らかなはずであった.そのような情勢を知りつつも二位尼が安徳天皇に死を選択させたことは,「平家物語」を史実とするならば,その選択は現在においても謎とされる.
・・・
安徳天皇陵参考地

現在,宮内庁が管轄する陵墓は,陵188,墓551となっており,また陵墓参考地には46箇所の場所が指定を受けている(宮内庁HPより).その陵墓参考地の一つ,安徳天皇陵参考地が高知県高岡郡越知町にある.

高知から国道33号を向かって赤土トンネルを越え,大桐川を挟んだ向かいに忽然と聳える横倉山.この頂に,その参考地が横たわる.

越知町史記載の「安徳天皇横倉潜幸説」に基づけば,屋島の合戦の折に平家一門によって既に難を逃れられて四国に潜入したとする説.ここから横倉山まで約2年の歳月を要して,険しい四国山地を西へと移動していく.その辿ったとされる逃避路は屋島を出発として

徳島県三好郡山城谷→徳島県三好郡東祖谷山→西熊山→御在所山→土佐郡森村→稲叢山→土佐郡本川村越裏門→椿山→高岡郡仁淀村別枝→横倉山

とする.粗く見渡すならば,東祖谷山からのルートは国道439号を西進していることになるが,椿山から南下し,横倉山へ至るまでは一部国道33号と跨る箇所がある.

この横倉山に行宮を造営し,安住の地を得ることになるが,それから13年の時が流れ,正治2(1200)年8月8日,23歳の若さで安徳天皇はこの地で崩御したとする.

この根拠となっているのが,安徳天皇を擁護して落ち延びた平知盛の4代目の孫・平種盛が正和元年(1312)7月に記した「黄表紙」によるもの.既に安徳天皇崩御から120年後に記されたものであるので,どのような形で伝承したかは定かではないが,この中に上記の屋島から横倉山に至るまでの概略が淡々と記されている.

四国山地を東から西へ横断するルートの中には,休場,越裏門,国王山,別枝都と安徳天皇や平家一門が滞在した名残を感じさせる地名が多く残されている.地名が元々あったところから伝承が生まれたり,また逆に伝承から地名が変化したことも考慮しなければならないものの,安徳天皇の死を伝える証拠が一方で平家物語に依存しているという反面も,この横倉山だけでなく日本各地に伝わる安徳天皇の生存伝説を生み出す要因になっていることになっている.

【参考文献】
四国地方建設局四十年史 建設省四国地方建設局,1968
高知工事事務所四十年史 建設省高知工事事務所,1987
愛媛県史 地誌1(総論),愛媛県,1986
越知町史 越知町,1984