国道1号
起点 東京都中央区
終点 大阪府大阪市
延長 572.7km

重要な経過地 東京都千代田区(霞が関一丁目) 同都港区(高輪一丁目) 同都品川区(東五反田一丁目) 同都大田区(池上二丁目) 川崎市(幸区) 横浜市(神奈川区) 藤沢市(城南四丁目) 茅ヶ崎市(下町屋) 平塚市(浅間町 袖ケ浜) 神奈川県中郡大磯町 小田原市 同県足柄下郡箱根町 三島市 沼津市 富士市 清水市 静岡市(栄町) 藤枝市 島田市 静岡県榛原郡金谷町 掛川市 袋井市 磐田市(三ケ野) 浜松市 湖西市 同県浜名郡新居町 豊橋市 愛知県宝飯郡小坂井町 豊川市(白鳥町) 岡崎市 安城市(宇頭茶屋町) 知立市 刈谷市(今川町) 豊明市 名古屋市(熱田区) 同県海部郡弥富町 桑名市(安永) 四日市市(采女町) 鈴鹿市(石薬師町) 亀山市 三重県鈴鹿郡関町 滋賀県甲賀郡水口町 同県栗太郡栗東町 草津市 大津市(瀬田) 京都市(下京区) 宇治市 京都府久世郡久御山町 八幡市 枚方市 交野市 寝屋川市 門真市 守口市

指定区間 東京都中央区日本橋から大阪市北区梅田一丁目三番まで
(横浜市西区浜松町六十六番から同市戸塚区柏尾町字尾崎台四百四十七番を経て同区上矢部町字坂本二千九百三十一番一まで、同区柏尾町字尾崎台四百四十七番から同区戸塚町四千九十七番を経て同区戸塚町字十ノ区二千二十八番の一まで及び神奈川県足柄下郡箱根町大字湯本字三枚橋九百二十三番の一から同町大字宮の下四十七番を経て同町箱根字畑引山三百八十一番三までを除く。)

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国道の歴史

R1東京都港区
日本の国道の原点,国道1号.起点は日本橋に始まり,中央通り-永代通り-日比谷通り-内堀通り-桜田門-桜田通りと官庁街を抜けて第二京浜に入る.

現国道部は大正道路法では国道三十六號として「東京市ヨリ横濱港ニ達スル路線」となっていた区間.

ただし,大正9年の段階では国道ではなく,昭和9年の国道表改正(内務省告示第251号;昭和9年5月1日)によって昇格し,戦後の道路法改正にともなって国道1号となった.

それまでの国道1号は現国道15号で,大正道路法当時は「東京市ヨリ~宮ニ達スル路線」として,ほぼ東海道を踏襲していた.

第二京浜は昭和15年に予定とされた幻の東京オリンピックのために造成された道路で,昭和9年に計画が開始され,昭和11年から着工が開始.戦時の中で中断を余儀なくされたが,直線的な設計は軍用滑走路として転用できるように配慮されたともいう.昭和33(1953)年に全通する.

三島由紀夫:市ヶ谷への道

防衛庁 市ヶ谷自衛隊駐屯所
昭和45年(1970)11月25日.この日の新聞(夕刊)のトップを飾る記事を眺める.見出しに「三島由紀夫が自衛隊に乱入 演説して割腹自殺」(朝日新聞)として,事件は以下のように記録されている.

『二十五日午前十一時ごろ,東京・新宿区市谷本村町の自衛隊に,作家の三島由紀夫(四五)ら楯の会の会員計五人が訪れ,東部方面総監の益田兼利陸将(五六)に,隊員への演説をさせろと要求,同陸将に日本刀や短刀をつきつけてしばり上げ人質にした.

自衛隊側が三島の演説を許すと,三島は憲法改正などを訴えたあと,総監室に戻って会員早大生森田必勝(二五)とともに割腹し,死亡した.』 (朝日新聞夕刊,昭和45年11月25日)


この事件は,その後の日本人に重く,そしてこびり付くような除くことができないシコリを残した.単なる三島の狂気だと割り切れない所に,この事件の永続性がある.

近年になり三島由紀夫が再評価されているのも,その最後の言葉(檄)に込められたメッセージが,失われた10年と言われるバブルと後の日本の醜態化,そして自衛隊に関わる憲法の違憲性まで踏み込んだ指摘があることを,そのまま表現しているからでもあろうか.

『われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし,国の大本を忘れ,国民精神を失ひ,本を正さずして末に走り,その場しのぎと偽善に陥り,自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た.政治は矛盾の糊塗,自己の保身,権力慾,偽善にのみ捧げられ,国家百年の大計は外国に委ね,敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ,日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを,歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた.』(檄,三島由紀夫)

三島由紀夫が市谷自衛隊駐屯地で演説をした主旨はこの檄文に認められた内容であったが,肉声はかき消され,映像には拳を振るう三島の姿だけがやけに印象的に人々の記憶には残っている.

この「狂気」ともとられた行動は用意周到に準備される.決起当日の午前零時,長編小説である『豊饒の海』の最終章「天人五衰」を完結させ,その10時間後には自宅である大田区南馬込を出発する.

R1 大田区南馬込付近
山崎行太郎氏は,その小説『小説三島由紀夫事件』で,自宅から市谷まで向かう様子を次のように描く.

『三島由紀夫ら五人を乗せた車は,南馬込四丁目を過ぎ,環七に出た.環七に入ると,車はスピードをあげた.道は予想外にすいていた.

(中略)

 十時二十分,車は左折して第二京浜に入った.東急田園都市線の中延のガードをくぐると,三島は,左折して中原街道に入るように命じた.わざわざ遠回りをしようというのであった.

おそらく,このまま行けば,予定より早く着くと思ったからだろう.しかしまた,道を変更したのは,一刻も長く生きていたいという三島の本能的な判断でもあった.』 (小説三島由紀夫事件,山崎行太郎)


その後,首都高2号から首都高4号へ入り,外苑で降りる.時間を調節するために外苑を周回した後,自分の母校でもあり,娘の通う学習院初等科の近くで停車したともする.

『「わが母校の前を通るわけか.俺の子供(長女紀子)も現在この時間にここに来て授業を受けている最中なんだよ」といって,無色の口紅を唇にぬる.』(三島由紀夫の生涯,安藤武)

ここより外堀通りへと進み市谷へ向かう.第二京浜で三島の抱いた本当の心境は何だったのだろう.「日本人の魂の腐敗」や「違憲の自衛隊の姿」という檄文を反芻していたのか.残す「家族」や「子供」に対する未練だったのか.それとも,最後まで自己の美意識に徹する「死」の姿だったのか.

バブル崩壊後,人々が口にする中に「日本モラルの崩壊」の「美しい文化の復興」といった回帰的指向性が強まっている.三島由紀夫の自殺に際し,司馬遼太郎は翌日の毎日新聞に「異常な三島事件に接して」と題して,「日本社会の健康さ」を持って真っ向から批判を浴びせているが,晩年は「日本社会の不健康さ」,特に昭和の廃頽を嘆き,三島の檄とは変わらぬ「憂国」の念を抱いて亡くなった.

三島由紀夫が第二京浜で考えていたことを,今更の事ながら日本人は直視できるようになったのも,この国から「経済」を除けば,なんの魅力もない荒廃した国であることに気づき始めたからなのか.

【参考文献】
小説三島由紀夫事件 山崎行太郎,四谷グランド,2000
三島由紀夫の生涯 安藤武,夏目書房,1998
東国二十年史 建設省関東地方建設局東京国道事務所,1978
異常な三島事件に接して 司馬遼太郎,毎日新聞,昭和45年11月26日(朝刊)