国道289号
起点 新潟県新潟市
終点 福島県いわき市
延長 - km

重要な経過地 新潟県西蒲原郡巻町 同郡吉田町 燕市 三条市 同県南蒲原郡下田村 福島県南会津郡只見町 同郡南郷村 同郡田島町 同郡下郷町 白河市 同県東白川郡棚倉町 同郡鮫川村

指定区間 なし
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関連情報 福島県側八十里峠  新潟県側八十里峠  福島県国道289号

河井継之介:こしぬけ武士の越した道

国道289号 只見町叶津
国道289号の旧街道名は「八十里越街道」と古来の街道名の中でも独特の名前がつけられていた.

距離的には新潟県側から福島県側まで八里ほどの距離ながら,それが10倍ほど長い距離を感じされる,また艱難な悪路から「八十里」と名づけられたという.

この国道の惹きつける魅力には,その「八十里越」という単語の響きから来る古めかしくも遠心なイメージ,そして幕末の長岡藩総督・河井継之介が詠んだ

「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」

の句によって後世に伝わった戊辰戦争の一影があるからなのではないか.

河井継之介については新潟県国道403号の項で北越戦争(長岡戦争)前の様子を記したが,ここでは,その後に辿った河井継之介の敗走路について追ってみることにしたい.

慶應4(1868)年5月2日の小千谷会談の決裂によって,5月10日には榎峠で戦いの火ぶたが切られ,長岡藩内で政府軍(官軍)と奥羽列藩同盟軍との間に北越戦争最大の抗戦が始まった.

前線に位置する榎峠・朝日山の戦いでも長岡藩は善戦したが,一計を案じた政府軍はその背後を衝き,5月19日払暁に信濃川西岸より強襲.長岡城は攻撃を受け落城した.

これによって藩主・牧野忠訓とその一族は約60年振りと云われている大雨の中を会津へ向かって八十里越を夜通し歩きつづけたという.また,長岡藩を筆頭とする奥羽列藩同盟軍は退却を余儀なくされつつも,加茂まで後退し反撃の態勢を整えた.

そして,2ヶ月後の7月24日.今町(見附市)まで防衛線を押し戻した長岡軍は,日暮れを待って,奇策とされる泥炭地・八丁沖を縦貫し,翌未明に長岡城を奪回した.

しかし,この戦いにおいて河井継之介は敵弾によって左脚に被弾し,後にこの銃創が致命傷となった.

『継之助の担架は,八十里越を越えてゆく.左脚はすでに腐敗し,臭気を放った.それにしてもこの峠の長大さは,どうであろう.樹海は眼下にあり,道は天空に運なってゆく.

 八十里こしぬけ武士の越す峠

と,継之助はわが姿を自嘲した.』(峠,司馬遼太郎)


終焉の地 只見町塩沢の只見川
奪回した長岡城も1週間後の7月29日に新政府軍の反撃によって再び落城した.

負傷した河井継之助は従者に担がれながら見附-文納-葎谷(栃尾)-吉ヶ平と運ばれ,8月4日に藩主も辿った八十里越に向かった.

しかし,八十里越での避難は河井継之助と其の従者だけに限られたものではなかった.

再起を図る長岡軍,そして,その家族や人夫.また,住家をなくした藩民も加え,8月1日からの1週間だけで約5,000人以上の人々が会津へ落ち延びるために移動したという.

一日平均にして約1000人の流れが狭隘な山岳路を連なっていたことになろうか.

この列には健脚な人ばかりでなく,幼子や老人まで老若男女問わず生きる希望のみを支えとして移動していたことは,米沢藩による「越後戦争日記」に次のように記されていることからも伝わってくる.

『長岡の落人は,老人小児の手を引いて,泪く泪く山路に差懸り,みどりの黒髪紅花の顔はせ,今こそはやつれ果けん. 

(中略)

夕立を覆ふる笠もなく,わらんじ切れて素足にて落行人の姿をは,この世の地獄と思われける.』(越後戦争日記)


河井継之介もこの一群の中で運ばれているならば,きっと目の当たりにしていただろう.自分の指揮において敗れた河井自身には死による償いは当然のことと考え,覚悟はできていたかもしれない.

しかし,目の前を過ぎていく国を亡くした流浪の民には一切の責任はなく,また,彼らからの怨嗟の声も聞こえてきたはずだ.たとえ我が身自身が重傷の態であろうとも,民にしてみれば,直接には語りかけることはなくとも,必然の報いとの表情が顔には現れてたのではないか,と想像される.

只見町塩沢 河井継之介墓標
上記の自嘲の句は,指揮官としての責任を感じ,自らの不甲斐なさを嘆き,民には詫びることしかできない無力感を「腰抜け」とし,また再び生きて戻ることのない故郷から「越抜け」て行く別愁を掛けあわせられているが,事実上,これが辞世の句となった.

一夜がかりで峠を越し,8月5日夕刻には福島・只見の叶津に入った.

この時,会津若松に訪れていた幕府侍医の松本良順の診察を受けるが,すでに化膿の進行は防げるものではなく,松本良順は会津での治療を薦めたという.

現在の国道252号に相当する街道を只見川に沿って歩を進め,隣接する塩沢にて逗留した折,河井継之介は既に死期を悟り,この地にて死の支度をはじめたとする.

「自分の下僕に棺をつくらせ,庭に火を焚かせ,病床から顔をよじって終夜それを見つめつづけていた」(『峠』 あとがき,司馬遼太郎)

「八十里」の長い峠道を越えた10日後の8月16日,午後8時に42歳の生涯と閉じた.

【参考文献】
戊辰戦争の河井継之介 矢沢大ニ,河井継之介資料館,1990
新潟県史(通史編6,近代1) 新潟県,1987
峠 司馬遼太郎,新潮社,1975
戊辰戦争 佐々木克,中央公論社,1977
河井継之介 稲川明雄,恒文社,1999
歴史の道を歩く 今谷明,岩波書店,1996
八十里越(国道二八九号) 北陸建設弘済会,1996
三十年のあゆみ(1) 建設省長岡国道工事事務所,1989