| 国道169号 | ||||
| 起点 | 奈良県奈良市 | |||
| 終点 | 和歌山県新宮市 | |||
| 延長 | 180.0km | |||
| 重要な経過地 | 天理市 桜井市 橿原市 奈良県吉野郡大淀町 同郡吉野町 同郡上北山村 同郡下北山村 熊野市 和歌山県東牟婁郡熊野川町 | |||
| 指定区間 | なし | |||
| 全体図 | Download : Nara-R169.trk (トラックファイル) | |||
国道の歴史国道としては,昭和28年5月28日に認定.二級国道時代は起点を和歌山新宮市として終点は大和高田市までであった. 平成5年4月1日に起点・終点を入れ替え,昭和41年に整備された県道天理桜井線などを統合して奈良市まで延伸された. 奈良市から桜井市までは古来の上街道(上津道)に相当し,平行して並ぶ「山辺の道」とともに奈良から三輪への最短ルートであり,そして現在の国道165号に相当する横大路・初瀬街道と連絡する. この街道筋も明治になって重要性が認知されており,明治26年の仮定県道の認定においても奈良街道,郡山街道について三番目の上街道 (添上郡奈良町大字樽井大字樽井ニテ國道線ヨリ分岐シ山邉郡山邉村大字丹波市式上郡三輪町大字三輪同郡初瀬町大字初瀬宇陀郡榛原村大字萩原ヲ経テ同郡三本松村大字三本松ニ至リ伊賀國界ニ達ス) として認定される.大正9年の県道の制定においても,奈良大阪線についで奈良-桜井の区間は県道・奈良津線の一環となった. 山の辺の道」は長岳寺や祟神天皇陵・景行天皇陵・箸墓古墳・大神神社を辿る散策路としても近年には年配方々のハイキングコースとなっており,人通りが多くもなっている.(ただし,現在のルートが古代の山辺の道とは一致しているとされている証拠は得られていない) 国道169号の大半を占める吉野の区間については,元々は吉野から熊野へとつながる熊野街道(東熊野街道)とされ,西熊野街道(現在の国道168号)と並ぶ南北を縦貫する道とされた.近代以降,まず改修が始まったのは明治21年になり奈良と吉野にまたがる高取-大淀の区間の工事計画があがった. 現在では芦原峠をトンネルで抜けるようになっているが,明治21年12月5日に提出された建議によれば測量上および財政上の理由から,現在の県道269号(馬佐清水谷線)に相当する壺坂峠側が先に設けられた.この区間は大正9年4月1日に高取上市線となる.芦原峠側の道路は大正12年になり県道として認可(県道高取大淀線)となってからのこととされる. 吉野・上市より南側の区間は同じく大正9年4月1日に上市木本線として認可を受ける.現在では宮滝から五社峠をトンネルで貫通して川上村に入るが,制定当時は吉野川と平行するため,国栖を回りこんでいた.これは現在の国道370号と県道262号(国栖大滝線)の部分にあたるが,大正初期におけるこの吉野上市から国栖までの街道沿道の風景は,谷崎潤一郎中期の作品『吉野葛』の巧みな描写の中で蘇ってくる. 白洲正子と後南朝:吉野のかくれ里への道何も知らなければただ通り過ぎてしまうだけの集落.その「かくれ里」への思いについては著者は,冒頭の「油日の古面」で次のように記す. 『「かくれ里」と題したのは,別に深い意味があるわけではない.・・・これから私が書くものには,いく分それに近い面もあるかも知れないが,秘境と呼ぷほど人里離れた山奥ではなく,ほんのちょっと街道筋からそれた所に,今でも「かくれ里」の名にふさわしいような,ひっそりとした真空地帯があり,そういう所を歩くのが,私は好きなのである.』(かくれ里,白洲正子) 24の「かくれ里」からなる紀行文ながら,それぞれに心が揺り動かされる魅力が秘められ,読み人それぞれに共感できる古里を慕うことができる.その中のひとつ,「吉野の川上」の舞台となった「かくれ里」を求めに国道169号を,その吉野から南へ南下する. 五社トンネルを抜け,吉野川に沿って蛇行する国道は,現在は大滝ダムの建設に伴って川上村の一帯は道路の付け替え工事で目覚ましい変化を遂げている. 『次の大滝という部落から,そろそろ道が悪くなり,せまくなって,寺尾をすぎると,迫という村に入る.その名のとおり,せまった土地で,「吉野葛」の描写が思い出されるが,谷崎さんが,ここまでも来なかったとすると,その想像力と筆力はやはり大したものだと思う.吉野川が迂回するところに,丹生川上上社が建ち,川をへだてて神山らしい山ものぞめる.宿はこの神社の隣にとってあり,私はとうとうたる水音を聞きながら床についた.』(かくれ里,白洲正子) 工事車両用のアプローチ路で新道から旧道へ.荒れ果てた旧道をしばらく走ると,旧丹生川上上社跡が左手に現れる.丹生川上上社はすでに迫へ遷宮を完了していることもあり,白洲正子の訪れた丹生川上上社も,隣接する宿も今となっては跡形もなく更地となっていた.数年後にはひとつの「かくれ里」が消える.そしてもう一つ,この吉野は600年前に後醍醐天皇から発する後南朝(吉野朝)が消えた舞台でもある.(ただし,これには異説がある.これは三重国道311号にて記述) 後南朝とは云っても,当時の幕府からみれば単なる反幕府集団であることから,歴史的一次資料はほとんど亡失している.また,「後南朝」をいつから定義するのかも難しい. 1336年(建武3/延元元)12月に足利尊氏に敗れた後醍醐天皇が吉野へ逃れて以来,二つの朝廷・南北朝として皇室が分裂したが,その57年後に南北朝合一の機会がおとずれた.南朝4代,後亀山天皇と北朝6代・後小松天皇/足利義満の間で南北朝合一の和議が成立したのは1392年(明徳3/元中9)年10月28日.その骨子の中のうち,持明院派(北朝)と大覚寺派(南朝)の両統迭立が講和の核となった.南朝側の後亀山天皇が上皇として退位,北朝側の後小松天皇が譲位して,ここに名目上は南北朝は合体した. しかし,その講和条件も応永18年(1411)11月25日に,足利氏の思惑によって後小松天皇が皇太子・実仁親王を称光天皇と即位させたことにより,明徳の条約は反古にされた.これによって,後亀山上皇は小倉宮実仁親王と共に京都を発ち,再び吉野へ潜行.ここに,北朝・南朝とに再び分裂することになり,「後南朝」が樹立された,とする. (ただし,4年後の応永22年8月には再び和議が成るが,応永31(1424)年4月12日に後亀山天皇が崩御.その4年後の正長元(1428)年7月20日には称光天皇も28歳で崩御したが,再び北朝側が後花園天皇を即位させたことにより,ここにおいても再び条約は反古される・・・) 康正元(1455)年2月5日に南朝最後の皇胤となる尊秀王は16歳で自天親王(北山宮)として即位し,現在の上北山村小橡の龍泉寺を行宮とした.あわせて,京都からの防備上の役割を担う意味で,伯母峰峠を越えた川上村神之谷には弟の忠義王(河野宮)も御所を定め,南北のライン・連携を整えた.ただし,御所とは云いつつも,吉野の山深く立てられたものであるから庵に近いもので,16歳の自天親王が詠んだとされる一首, のがれ来て 身を奥山の 柴の戸に 月と心を あわせてぞ住む からは,慎ましい生活の中に自然を心の慰めとして過ごしている日々が偲ばれる. 赤松家家臣団は,あたかも,南朝再興を装いながら近づいたが,実際は嘉吉元(1441)年6月24日に赤松満祐が将軍足利義教を暗殺したことによって赤松家は幕府に滅ぼされおり,その赤松家再興の交換条件として吉野朝にある神璽を奪回し両宮を謀殺することを黙約したものであった. 一年後の長禄元年12月2日,この日,吉野は大雪に閉ざされた.この期に乗じて赤松家臣団は蜂起.目的とする北山宮と河野宮を誅し,その首級と神璽を抱えて,一路,京都を目指すべき北山から伯母峰を越えて行った(長禄の変). この凶報は吉野川に沿って,南朝を擁護する川上郷民に一気に伝わった.その沿道・沿岸で赤松家臣団は恨みに満ち溢れる郷民からの反撃を受け,ついに寺尾にて郷民は首級と神璽を取り戻したとされる. しかし,この変により南朝の皇胤は完全に断絶するに至り,ここに南朝は終焉を迎えることになった.現在,国道169号の寺尾地区における新道部には,「後南朝 最後の古戦場」の碑のほかに,川上村朝拝組によって刻まれた「自天王の戦跡」の二つの石碑が並べられている. 両皇子の御首は郷民達の手によって,現在の川上村神之谷にある金剛寺に手厚く埋葬された.また,郷民たちにとっても,もっとも良き思い出となっていたのだろう,まだ紅顔に満ちた16歳の尊秀王が即位した2月5日の朝拝式を,その金剛寺において毎年欠かさず,五百有数年の時代が経った現在においても厳粛に行っている. 【参考文献】 奈良県政七十年史 奈良県,1963 川上村に伝わる後南朝史 辰巳義人,1965 かくれ里 白洲正子,講談社,1991 吉野葛 谷崎潤一郎,新潮社,1951 後南朝史論集 後南朝史編纂会,瀧川政治郎,原書房,1981 吉野川上村史 福島宗緒,山本政治郎,1940 川上村史(通史編) 川上村史編纂委員会,1989 歴代天皇総覧 笠原英彦,中央公論新社,2001 南北御合体,一天平安 大野泰邦,歴史と旅(7),秋田書店,1998 |
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