大塔宮護良親王:南北朝・吉野挙兵の道
国道168号大塔村 大塔橋
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五条市から吉野川を渡り,しばらくもすると旧五新線の廃線跡を利用したJR西日本専用路線と分岐.この先は丹生川を交えながら互いに交差しながら西吉野村まで併走する.
ちょうど賀名生を過ぎるころから紀伊山地特有の景色へと移り変わり,いよいよ秘境への入口に足を踏み入れ,谷から吹き込む風を感じることができる.
この国道168号は,その東に走る国道169号とともに紀伊山地を縦断する点で類似し,地理的な特異性もあって,歴史性も共通する部分が多い.上記の賀名生を始めとして,その先の大塔村,そして十津川村をは南北朝ゆかりの集落地帯となっている.
大塔村に関しては,まさに南北朝時代の中枢となった大塔宮護良親王(おおとうノみや もりながしんのう)の御名を拝しているものであり,それだけに歴史上の意義が深い.
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の第三皇子.元徳3/元弘元(1331)年5月の元弘の変は,後醍醐天皇による倒幕計画が漏洩した事件ではあったが,その首謀たる計画は大塔宮護良親王によるところが大きいともされる(桜雲記).
元弘元(1331)年8月24日に後醍醐天皇は京都を脱し,急遽,笠置山へ遷幸することになったが,その間,大塔宮護良親王は比叡山に幕府軍をひきつけ後醍醐天皇の逃避のための時間を稼ぐなどの働きを見せた.
9月28日の笠置陥落後の大塔宮の足取りについては最終的に奥吉野・十津川に至る点では一致しているものの,そこに至るまでの行程については不明な点が多い.ほぼ唯一の記載となっている出展は「太平記」の第五巻「大塔宮熊野落事」.太平記に基づいて辿るならば大塔宮は追討軍を奈良県・般若寺で逃れ,その後は山伏に姿を変えて一旦南紀方面に大きく迂回してから和歌山県・切目王子から十津川に遷幸する.
『角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。
(中略)
由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。』(太平記,五)
この太平記の記述については多くの歴史家が指摘するように著者の想像によることろが大きい.その根拠の一つとして,由良湊,藤代,吹上,玉津島,切目王子と列記されている地名が方向性に順逆があり,明らかに不自然なことにある.
切目王子から十津川までの具体的なルートは太平記には記されていないものの,11月下旬頃には十津川に入ったとする.その後に,大塔宮一行は現在の大塔村中心部である殿野・辻堂を拠点とするが,ここには,この地帯を統括する豪族・竹原八郎とその甥・戸野兵衛とつながりを持ちえたことに寄る.
十津川村 谷瀬の吊橋
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大塔宮は,この大塔村/十津川に約1年ほど滞在したとされる.その間に,元弘2(1332)年3月には後醍醐天皇は隠岐へと配流となるが,大塔宮は後醍醐天皇に代わって,この地を拠点として鎌倉幕府倒幕のための令旨を発し,十津川のみならず,吉野や高野を掌握するように努めた.
ここには紀伊山地の特異的な信仰で結ばれる吉野・高野山・熊野を一体化させ,さらには熊野水軍も取り込むことで陸・海にわたり幕府軍と対当する兵力を確保することを目指していたという.
現在の国道168号の代表的な観光名所の谷瀬の吊橋.この橋を渡った対岸に大塔宮が行宮とした「黒木御所」がある.
期が熟した元弘2(1332)年11月に,大塔宮はここ黒木御所において還俗して護良(もりなが)と名乗り,ついに倒幕のための決意を固めた.25歳の冬だった.
戦闘の舞台は狭隘な十津川ではなく,紀伊山地の入口とも云える吉野とした.河内に展開する楠木一族を前線に据えることで二重の構えを取ることにより幕府軍への対抗を試みる.
吉野山愛染宝塔を中心として要塞を固め,幕府軍と対峙したのは元弘3(1333)年2月中旬であったが,閏2月1日に吉野城は没落.予想以上に早い敗戦となった理由には,戦闘拠点とした吉野・金峯寺の僧門を一体化できなかったためであったとされる.
金峯寺には「新熊野院」と「吉水院」と二つの対立する勢力があった.大塔宮は,「吉水院」を贔屓としたために,一方の「新熊野院」側の僧が反大塔宮を募り,幕府側に内通したことが戦の勝敗を決した.
人心の掌握と不和.その伏線とも云えるメッセージが,「太平記」には記されている.
「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し」(太平記,五)
大塔宮が山伏に変装して熊野に落ち行く場面.本来は熊野三山で拠点を構えるものが,急遽,十津川に変更したのは,大塔宮が見た「夢」の中で語られる上記の神託であった.
【参考文献】
大塔村史 大塔村役場,1979
私本太平記 吉川英治,講談社,1990
郷土誌 十津川村教育會 奈良縣吉野郡十津川村教育會,1928 |