| 国道202号 | ||||
| 起点 | 福岡県福岡市 | |||
| 終点 | 長崎県長崎市 | |||
| 延長 | 199.6 km | |||
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| 重要な経過地 | 佐賀県東松浦郡浜玉町 唐津市 伊万里市 同県西松浦郡西有田町 佐世保市 長崎県西彼杵郡西彼町 同郡大瀬戸町 | |||
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| 指定区間 | 福岡市博多区堅粕一丁目六十七番から佐世保市田の浦町五番十二まで | |||
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| 全体図 | Download :Nagasaki-R202.trk (トラックファイル) | |||
戦艦武蔵の建造:棕櫚が運ばれた道製縄機は,シートをかぶせられたままトラックに積まれて海岸方向に走り,三菱重工業株式会社長崎造船所の門をくぐった.」(戦艦武蔵,吉村昭) 吉村昭著の「戦艦武蔵」の書き出しは,漁獲用の棕櫚繊維が九州一帯から,そして日本全国からも忽然と消えつつある描写から入る. 棕櫚だけではなく,製縄機も同時に長崎造船所へ…. 戦艦武蔵の建造とはどのような関係があるのかと好奇心を一気に引き寄せる見事なる導入.その答えは次第に明らかになっていく. 戦艦武蔵は大和型戦艦の二番艦として三菱長崎造船所(現三菱重工業株式会社)にて昭和13年3月29日に起工された.建設当初から戦艦武蔵に関する情報漏洩に対して厳重なる警戒が図られる. 作業員の選抜,作業法(設計図面の管理など)といった人的管理は勿論のこと,造船していることが遠望からも絶対に知られてはならない条件がついた.長崎は湾を囲んで四方を山で囲まれているといっても過言ではない.これらの地理的条件を克服ために棕櫚を用いたスダレ(遮蔽幕)の考案がなされた. 建造におけるもう一つの障害で最大の課題が進水方法.長崎造船所では傾斜した進水台から滑走させて海に浮かべる進水方法をとっている.武蔵の全長は263.0mに対し,造船所から対岸まではわずか680m.滑走の勢いで対岸に激突するおそれが十分に考えられた.また,船体の重量は30,000トン近くある巨艦を滑らかに滑走させることができる進水台を設計することも関係者の苦労を倍増させた. その音が鎖の音と交叉して,作業員たちの声をかき消した.滑り出て行く船体の重量に,固定台の上に塗られた獣脂が加熱して,猛烈な白煙をあげている.それを予期して予め配置されていた数本のホースから,水が放たれ注がれている. (中略) 対岸に激突しないだろうか.渡辺の胸に,不吉な予感が甦った.対岸の丘を視野から隠した船体が,そのまま丘に突っ込んで行くような錯覚をおぼえた. が,艦の速度は徐々に弱まり,やがて船体は,艦尾をやや右に向けて停止した.」(戦艦武蔵,吉村昭) 進水は昭和15年11月1日に無事に行われた.進水した艦が停止した位置は対岸まで220m地点.事前に試算した距離とは1mのみの誤差というほど完璧な進水であったという.しかし,予期しなかったこととしえは,進水によって港内の水位が50cm以上も上がり,対岸には1m20cmの高波が押し寄せた.浪ノ平地区の住居区は半ば床下浸水となる.
建造された当時としては大和に次いで世界最大,最強の超弩級戦艦であったといっていい. しかし,その武蔵も米軍のレイテ島上陸により発動された「捷1号作戦」にボルネオ島を出撃し,レイテ湾に向う途中の10月24日,シブヤン海において米機動部隊の波状攻撃により直撃弾17発,魚雷20発を受け撃沈した. 昭和19年10月24日19時35分. 完成から2年で海の藻屑となった戦艦武蔵.大洋での戦闘方法が艦船対艦船から対航空戦と流れが変わっていくことを読みきれなかった日本の参謀部の問題として語られることがある. 日本が頼った巨艦大砲主義が,この武蔵の沈没によって終焉を意味するものであった.皮肉にも,その戦闘機の戦力としての実力を認めたのが真珠湾攻撃を初めとする戦闘において実証したのは日本であった. 時代を経て,巨艦大砲主義など戦略の誤りを指摘・批評するほど簡単なものはない.しかし,この現代でも巨艦大砲主義に類する主義を持つ組織がある.教訓は一世代も持たず崩れ去っているようだ. 【参考文献】 戦艦武蔵 吉村昭著 新潮社,1971 |
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