国道224号
起点 鹿児島県垂水市
終点 鹿児島県鹿児島市
延長 - km

重要な経過地 鹿児島県鹿児島郡桜島町

指定区間 垂水市大字海潟字新道二千六百五番の一から鹿児島県鹿児島郡桜島町横山三十八番まで及び鹿児島市泉町十七番の八から同市山下町四番の一まで
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国道の歴史

桜島フェリー(鹿児島)
国道224号は昭和28年に二級国道228号(桜島鹿児島線)として指定された.

ただし,この制定時には桜島口-有村間で不通区間を含む国道であった.

大正3年の噴火によって寸断されていた袴腰-東桜島間の熔岩原を抜ける通称「熔岩道路」は,昭和11年には開通していたが,袴腰と桜島口(R220交点)から有村までの区間は昭和30年10月に南岳噴火を契機に桜島一週道路,桜島避難道路としての整備が求められ,昭和31年8月から工事が着手.ここでは自衛隊第8混成団に工事が要請された.

昭和32年8月に桜島から有村までの延長9040m(幅員6m)の道路の開通をみたことにより,桜島を周回してつなぐ道路が完成した.

溶岩道路:大正三年の大噴火

桜島フェリーより桜島遠望
桜島の過去の噴火の中でも,もっとも壮絶だったとされるのが,大正の大噴火(大正3(1914)年1月13日)で,今でも,現在の国道224号の区間の内,桜島の西側の袴腰-赤水間,および東側の有村-桜島口の両区間は大正溶岩のその惨事が色濃く残されている.

大正大噴火は,前日の11日午後2時頃から御岳8合目付近より水蒸気による発煙が立ち上ることが確認された.

翌12日10時5分頃,まずは赤水の真北,引ノ平(海抜350m地点)より,突如として大音響と共に火柱が上がった.

それと呼応するかのように,続く10時15分頃,黒神の西南2kmにある鍋山の400m地点から噴火し,東西2箇所から黒煙と火柱が噴出した.

降灰だけでも2m〜3mに至る個所もあり,これにより火砕流による直接被害は免れても,この降灰だけで道路・民家は埋没し被害を受けた.また黒神側の噴火で生じた火砕流は,それまで海を隔てていた桜島を大隅半島と地続きにさせた.

「噴火の勢ひ爆發當時の如くならずと雖猶頗る猛烈,K煙濛々半天を覆ひ,熔岩遂にP戸海峡を埋没するに至れり」(櫻島大爆震記,鹿児島新聞記者十餘名)

ただし,これだけの大惨事ながらも桜島においての死亡者は東西合わせて2名(負傷者1名,行方不明者23名)と少なかったことが異例ともいえる.ここには,住民自身の迅速なる避難の判断があったことが一因ともなろうか.

−どちらかといえば,鹿児島市を始め,離岸部を含む所での死者が多く,上記2名を含め,この大正大噴火によって亡くなった方の総数は35名と記録された(桜島大噴火史,鹿児島県)−

熔岩道路(袴腰-赤水)
一方の公的機関であった当時の鹿児島測候所の判断は,噴火前の11日の時点で「震源地は市を距る北方三四里の位置にあるものとし,後に至り吉野方面ならんと観測したり」と発表していた(櫻島大爆震記,鹿児島新聞記者十餘名共纂).

そして噴火一時間後になって初めて

「十一日以後の鹿児島地震は著しく頻繁の度を加え,十二日早暁来殆んど不断に微動を継続し,その間に弱震の特発せる有村は震源地点の近距離に存在するを証せられ,かつ櫻島山の噴気等に依り火山性の地震なる事を認めたり」

と事実を認めたが,すでに時既に遅く,噴火で島は避難でごった返しの状況であった.

このような判断の誤りについては,当時の所長であった鹿角義助に批判が集まった.

前年の大正2年から霧島,伊集院の方でも群発地震が頻発していた経緯や,当時の観測機器の精度から,鹿角義助も桜島の可能性についてもマークをしていたが,噴火するまで震源が桜島なのか,それとも霧島なのか判断に苦しんでいたという.

ただし,この判断の過ちは東桜島住民にとっては禍根となり,「桜島櫻島爆發記念碑」にある有名な一節「住民ハ理論ニ信頼セス」を後世まで残すことになった.

現在でも自然災害,地震の予測・判断については完全なものには至っていない.技術を過信するべがらず,との認識は時代が経ても変わることはないのであろう.


櫻島爆發記念碑

大正三年一月十二日桜島ノ爆發ハ安永八年以來ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メ八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ

其爆發ノ数日前ヨリ地震頻發シ嶽上ハ多少崩壊ヲ認メラレ海岸ニハ熱湯湧沸シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等刻々容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ數回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ

故ニ村長ハ残留ノ住民ニ狼狽シテ避難スルニ及ハスト論達せシカ間モナク大爆發シテ測候所ヲ
信頼セシ知識階級ノ人却テ災ニ投シ漂流中山下収入役大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ
最後ヲ遂ケルニ至レリ

本島ノ爆發ハ古來歴史ニ照ラシ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ

住民ハ理論ニ信頼セス

異変ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時変災ニ遭フモ路頭ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス

茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス

大正十三年一月 東桜島村



【参考文献】
大正三年噴火五十周年記念 西桜島村,1964
大正大噴火史 鹿兒島縣,1928
鹿児島市史 鹿児島市,1970
櫻島大爆震記 鹿児島新聞記者十餘名共纂,櫻島櫻島大爆震記編纂事務所,1914
かごしま20世紀(山河こえて) 南日本新聞社,2000