国道360号
起点 富山県富山市
終点 石川県l小松市
延長 - km

重要な経過地 富山県婦負郡細入村 岐阜県吉城郡河合村 同県大野村白川村 石川県石川郡尾口村 同郡吉野谷村

指定区間 なし
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仏御前:絶世の白拍子の浮世路

R360 石川県小松市原町
小松から国道360号に入り,10km先にある赤穂谷温泉を訪れた.旧道の狭隘路を辿り,案内標識に沿って道を進むと左右に連子窓を持つ白壁の門が現れる.

そこをくぐると,「仏御前ゆかりの温泉」と掲げられる札が目に入った.

ここ原町は平家物語の一つのエピソードとして登場する仏御前の故郷であり,短く儚い命が露と消えた終焉の地ともされる.

彼女は永暦元年(1160)1月15日に塔守白河兵太夫の娘としてこの原町で誕生したとされる.

原町の名も,元々は「仏ノ原」,「仏原」,もしくは「仏ヶ原」と呼ばれていたものが,時代と共に縮約されて「原」となったと考えられており,「仏御前」の「仏」も出生地とされる「仏原」から冠がなされたとする.

14歳で叔父の白河兵内の招きによって京に上がり白拍子となった.舞,歌にかけてはその才能に右に出るものはなく,時の頭領の平清盛の心をひきつけた.その寵愛を一身に受けるようになった.

しかし,その影で仏御前を引き立てた祇王・祇女の姉妹は清盛から暇を申しつけられることになり,祇王は胸のうちに想いを抱いた心情を次の一句を残し,妹の祇女と共に出家した.

萌え出るも 枯るるもおなじ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき

翌年の春,清盛は祇王を呼び出した.無神経にも仏御前の前で仏御前を慰安する舞を要求.祇王はうちしおれながらも

仏も昔は凡夫なり 我らもつひには仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ

と毅然とした姿勢で吟じた.この舞によって仏御前は我が身の在り様を省み,後を追うように出家.祇王・祇女と共に嵯峨野の奥(現在の祇王寺)にて精進したとされる.

原町 仏御前 火葬地へ
ここまでは源平盛衰記などでも記されている有名な話ながら,その後の仏御前は自分の身体に宿った命があることに気がつき,京都を去り,故郷の原町に戻ったとされる伝承がある.

帰路は美濃国穴間谷を経る美濃街道(国道156号)で越前大野に入るルートを辿った.

ここより勝山街道(国道157号)を北上するものの,谷峠を越えた白山麓の瀬戸付近より陣痛が始まり,木滑(吉野谷村字木滑)で出産したとされる.

現在でも,その吉野谷村には,仏御前が陣痛を堪え,自力で出産するためにしがみついたとされる岩が安置されている.

しかし,赤子は発育不良のため数日後には死亡.半年ほど子供の菩提を弔うために木滑に滞在し,鳥越より原町に向かう街道(国道360号)を経て故郷に戻った.

18歳にして故郷の原の里に戻るものの,当然のことながら生活の貯えも日を追って少なくなってきたことから,生活の糧を得るために村で茶屋を開く.

都で白拍子をつとめ,何よりも平清盛の寵愛を受けていたという評判は噂は一気に広まったことによって商いは順調に軌道にのった.しかし一方で,彼女を目当てとする男衆の仕事が疎かになり,村の風紀が乱れはじめた.遂には,村の女衆が相計って阿稜山中に仏御前を呼び出し,仏御前は儚くも機の杼で刺殺された.治承4(1180)年8月18日のことで,享年は22歳とされている.

伝承で仏御前が辿った京都から加賀までの道のりが北陸道ではなく,美濃(岐阜)経由している点については疑問を残すが,彼女が加賀の国に戻り無念のうちにこの世を去ったことは,能楽の謡曲「仏原」の中でも表現されている.宝生流では明治に廃曲となっているが観世流では鑑賞することができる一曲.この能からも違った形で原町をイメージできる.

【参考文献】
加能女人系(上) 北陸新聞編集局,1971
仏御前 山本清嗣,藤島秀隆,北国出版社,1979
新・平家物語 吉川英治,講談社,1989