| 国道365号 | ||||
| 起点 | 石川県加賀市 | |||
| 終点 | 三重県四日市市 | |||
| 延長 | 231.0km | |||
| 重要な経過地 | 福井市(浜住町) 福井県丹生郡越前町 同郡織田町 武生市 同県南条郡南条町 同郡今庄町 滋賀県伊香郡木之本町 岐阜県不破郡関ケ原町 三重県員弁郡藤原町 同郡北勢町 同郡大安町 同郡東員町 | |||
| 指定区間 | なし | |||
| 全体図 | Download :Gifu-R365.trk (トラックファイル) | |||
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関ヶ原の役:島津隊の決死路その最強の戦略眼を持つ島津義弘にとって最後の戦ともいえ,そして尤も危機に瀕したのが関ヶ原の戦いであった. 関ヶ原町小池,今は関ヶ原製作所の工場の裏地立地しているが,400年前の慶長5年(1600年)9月25日,ここに薩摩の将,島津義弘が陣を構えた. 午後2時を過ぎることから勝敗の流れがおよそ決定的となった頃,最後まで陣形を崩さなかった島津義弘ははじめに切りこみによる討ち死にを考えたという. すでに齢66であった老将ではあったが,甥・島津豊久と参謀・長寿院豊久の奨めに応じて退却することに決めた.しかし,東軍に完全に包囲される.特に島津軍は東軍の中でも屈指の福島正則と対峙した陣を構えている. そんな中,どのようなルートで退却をするというのか・・・. 1998年に出版された池宮彰一郎氏による「島津奔る」は島津義弘を強いリーダーシップを発揮する名武将として描き,この関が原の戦も臨場感あふれる描写によって,その退却路を描く. 『声が低く,強く伝わって行く. 「では,帰る方策を言おう」 義弘は,即座に考えをまとめた.人聞の考えは,一瞬の閃きによって決まる.天才の天才たる炬えん所以はそこにある.あとの思考は補足に過ぎない. 「では言う.後へ退るのは愚である.相手の意表を衝く.前に突き進む」 一同は,呑まれたように聞き入った. 「薩摩島津の退却は,前に進む事しかない.内府の本陣の前を突っ切って,鳥頭坂を降る」』(島津奔る,池宮彰一郎) 前代未聞の前に退くという,奇抜な退却戦は後日「島津の退き口」と称された. 島津軍が採ったルートは現在の地図を辿ってなぞるならば,小池よりR365を南下しR21を跨ぎ,牧田街道(R365)に向かうものであった.ここにはそのまま伊勢街道を南下して鈴鹿から西へと転じるという考えが島津にあったのではと有力視されている.
『家康は呆然となった.井伊と本多の両隊は徳川勢の中で最強を誇る.その両隊が島津勢と紛戦状態になり,真っ黒な渦を巻き,家康の本陣に迫ってきた. ―数に劣る敵が,何でこう強いのだ・…. と,突然,その黒い渦が真ニツに割れ,鋒矢の隊形をとった島津勢が姿を現わした. (中略) まるで魔神に出合ったように,家康本陣の側近は恐れ戦いた.誰よりもその恐怖と戦傑が強かったのは家康であろう.家康は床几から突っ立ったまま,足も動かず声も出ず,ただ島津勢を凝視するばかりであった. 島津の鋒矢形の隊形は,変化し始めた.突撃隊形をとるものと思われた.その距離は,実測してみると約一丁強(百二十米ほど)であった.』(島津奔る,池宮彰一郎) 徳川の本陣を中央突破した島津は牧野街道を南下.しかし,後塵を拝しながらも徳川の先鋭である井伊直政,本多忠勝隊が追撃し,烏頭坂に口にて血戦が行われる. 殿軍を勤めた島津豊久はここで重症を負った.
勝地峠は伊勢街道の中でももっとも難所ながら,現在では国道365号は峠区間を上石津第一トンネル(L=1194m),第二トンネル,第三トンネル(L=1180m)で貫いているため,峠道でもなく峠の面影さえ感じさせなくなっている. この多良にて豊久は自刃して果てたと言われている.享年31歳.瑠璃光寺には,島津豊久の位牌がまつられている.一方で,烏頭坂には大正9年に建てられた「島津豊久戦死処」の碑があることからも,未だに豊久の死に関しては烏頭坂説と多良説がある. いずれにしても島津の壮絶たる屍が,この街道沿いに積み重なり,戦線が乱れたことによることを示していることにもなろうか. その後,島津軍は上石津下山から進路を西にとり江州街道で時山-五僧-保月-多賀-高宮のルートで,これは現在の岐阜県道139号(上石津多賀線)のルートに近い.落ち武者狩りを避けながらようやくにして大阪まで落ち延びたが,関が原で300名ほどで編成した島津隊も最後には数十騎まで激減していたという. 鈴鹿山脈の中では北限であるこの峠は「島津越」と呼ばれている. 【参考文献】 島津奔る 池宮彰一郎,新潮社,1998 歴史の道調査報告書 伊勢西街道 岐阜県教育委員,1982 かみいしづの古道 杉川哲夫著,上石津町教育委員会,1987 |
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