R156白川村椿原附近
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岐阜県国道21号より北上し,洞山の北部をトンネルで巻くようにバイパスが走る.
それより美濃までは信号機によって断続的に進行を妨げられるものの,美濃以北は長良川に沿うように奥美濃へ向かう.東海北陸道の延伸により,奥美濃へのアクセスは格段と利便性を増した.
永年その役割を担っていた国道156号の需要性は薄れつつあるかと考えられたが,週末ともなると車の列が続くほど交通量が多い.特に冬のスキーシーズンともなると東海北陸道の渋滞が激しくなり,国道に流れる乗用車で列をなす.
街道としては白山信仰によって開かれた経緯がある.岐阜より長良川を北上し,現在の長良川鉄道の終着地点の北濃もしくは前谷から檜峠を越えて石徹白,そして白山へのルートがメインであったようだ.
夏のシーズンには「上り千人下り千人」と言われるほど多くの参拝客で賑わいを見せ,場所によっては通行税が課せられた.
江戸時代は岐阜と郡上八幡を結ぶ道は郡上街道と呼ばれていた.
「その剣難は貨物の運搬,馬背をもってするも,なお容易ならざりき」といわれたほど難所に続く難所に遮られていた.
美濃市須原〜美並村木尾間の地蔵坂,美並村半佐〜根村の恵比須坂,美並村下田の下田の渡し,美並村福野の福野坂,美並村三日市の三日市坂,八幡町吉野の箱坂,おなじく宝殿.これらの6つの難所があった.
明治12年に県道に編入によって本格的に道路の改良整備が始まる.明治44年には街道中最大の渡し場であった下田には橋が架けられ,全線が道路によってつながった.
一方,郡上八幡から北は白鳥までは上保街道,さらに白鳥から北へは街道名を白川街道と名を変えて,飛騨國大野郡荘川村まで通じていた.
当時は高鷲から鷲見を越えるルートであったが,明治32年には現行のルートである白鳥-高鷲-蛭ヶ野に至る道が整備され,こちらが主街道となった.昭和初期には大規模な改修工事行われ,その道の広さから「三間道路」,もしくは投資した費用の大きさから「百万円道路」と呼ばれていた.
昭和27年の道路法改正によって岐阜県岐阜より富山県高岡に至る2級国道156号が誕生した.
さくら道:御母衣ダムと2本の老桜
R156 荘川桜
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岐阜県荘川村に高さ131m,幅405mの御母衣ダムがある.そして,その脇を走る国道156号の西側の湖畔には荘川桜と呼ばれる2本のアズマヒガンが植えられている.
これはこのダムが完成した昭和35(1960)年,当時のダム工事を担った電力開発株式会社初代総裁,高橋達之助氏の決断によって存命した老桜で見事な巨樹だ.
戦後,日本の復興に伴って国内で渇水および電力の不足が深刻な問題となりはじめた.
アメリカ・GHQおよび日本政府はその危機を解消するべく,昭和27年に総理府告示第237号として全国9ヵ所に大規模ダムの建設を決定.
そのうちの一つが庄川系の御母衣ダムであった.
昭和32年に工事が着工され,昭和35年にロックフィル式ダムとして完成した.このダムの完成により,荘川村の白川郷が湖底に沈んだ.
高橋氏は国家プロジェクトを完遂させなければならない責任を感じる一方で,個人として消え行く村に対する惜愛の情を感じていた.ある補償交渉の場でのこと.会場の隣に樹齢400年の姥桜が目にとまった.その時,個人としてしうるせめてもの償いとして,桜の移植を考えたとされている.
桜の移植とはいっても,それほどの老木となると前例がなく,かりに移植できたとしても活着する可能性はないと考えられていた.
当時,桜博士として知られていた笹部新太郎氏に伺いを立てたが,その結論は同じであった.しかし,いずれにしても湖底に沈み廃木となる運命には変わりなく,同じ滅び行く運命にあるならばと移植を決意する.
昭和35年11月15日.桜の移植が開始された一本に10日ほどかけて慎重に工事が進められた.掘り起こされた桜は約40Tonと予想を上回る重量であった.大型ブルドーザーに牽引され1km先の現行の地へ運ばれた.移植が完了したのは年の瀬が押し迫る12月24日であった.
そして半年後の5月.奥美濃に遅い春が訪れた.姥桜は淡い花びらをつける.
ふるさとは 湖底になりつ 移し来し この老桜咲け とこしえに
これは水没記念碑に刻まれている高橋達之助氏の詠んだ句である.
さくら道:その2 太平洋と日本海を繋ぐ桜並木
近年『さくら』と題する映画が上映された.神山征二郎監督の作品で篠田三郎と田中好子が共演している映画で,昭和40年代に太平洋と日本海の260kmを桜並木で結ぶぼうとした一人の国鉄バスの車掌,佐藤良二氏の実話をもとにした内容となっている.
この原作は中村儀朋氏の『さくら道』.NHKのディレクターであった中村氏が昭和56年に「ふるさと証言」という番組の取材をきっかけとしてまとめた一冊の本が題材となっている.
佐藤氏は名古屋と金沢と走る国鉄バス「名金線」の車掌であった.このバスのルートは名古屋-枇杷島-清洲-一宮-岐阜-美濃-美並-八幡-白鳥-蛭が野-御母衣ダム-平瀬-五箇山-細尾峠-福光-金沢を運行していた.約半分以上を現在の国道156号を走行するルートになる.
バスの車掌の傍ら御母衣ダムの桜の移植にはカメラマンとして立会い,活着してからも慰問資金を集めるために桜の写真を撮影し地元の人々へ還元する活動を行っていた.
春になって御母衣ダムに訪れると,荘川村に住んでいた人々が桜の木の下で花見の宴を開いていた.その座にいた一人の老女が立ち上がりゆっくりと桜の樹に近づくと,樹の肌を撫ではじめ,ついには崩れ折れるように木にすがり声をあげて泣きはじめた.
その姿を目の当たりにした佐藤氏にとってその後の桜並木計画を実行するにあたり,大きな影響を与えた光景だったとされる.
名金線の走るルートに桜を植える第1歩となったのは「日本さくらの会」に移植後の写真を送り,その返礼に30本の苗木が贈られてきた昭和41年4月から.初めはバスが発着する名古屋営業所に植えたとされている.
それから自費を投じて毎年200本近い桜の苗木を沿線の各地に植えつづけ,昭和48年4月10日,金沢の兼六園に1500本目の桜を添えた.実に7年の歳月をかけ夢を実現したことになる.しかし,その3年後の昭和51年1月25日に永眠.47歳の若さでこの世を去った.
1993年より4月に岐阜県白鳥町を中心として「国際ネイチャーラン」というマラソン大会が催されている.これは名古屋市から金沢市まで佐藤氏が残した桜並木の道を2日がかりで走るイベントとなっている.
【参考文献】
郡上郡史 岐阜県郡上郡,1910
ふるさとをゆく 郡上郡教育振興会,1999
郡上八幡町史 郡上八幡町,1981
白鳥町史 通史編 白鳥町,1977
大和町史 大和町,1984
さくら道 中村儀朋,風媒社,1993 |