国道特39号 | |||||||
起点 | 沖繩縣那覇市西新町 | ||||||
終点 | 沖繩縣中頭郡読谷山村 | ||||||
延長 | 28.5 km | ||||||
制定日 | 昭和18年10月8日 | ||||||
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改正履歴 | |||||||
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全体図 | Download : MR-39.trk (トラックファイル) | ||||||
『角川日本地名大辞典 沖縄県』によれば,起点の「那覇市西新町」は昭和46年までの町名で,現在の那覇市辻,西,通堂町の一帯を示していた.一方の終点「読谷山村」は戦後間もない昭和21(1946)年12月に現在の村名である「読谷(よみたん)村」に変更された. 地名の変遷を確認しても,この国道のルートについて思い巡らすのは,那覇における当時の線形はどの道であったのかという思いを抱く. 昭和18年に制定された当時の時代背景から,公文書レベルで確実な一次史料は存在しておらず,ほぼ推定の域を抜け出すことはない. 旧道を辿る上で最初に調査するは国土地理院の旧版地形図で,この作業は道路探索にはかかせない.今回も,その旧版地形図から図歴を調べることにした. 国土地理院の図歴を辿っていくと1/25,000,1/50,000ともに最も古いもので大正10年から12年にかけて発行され,次の版は1/50,000で昭和36年と大きく時間を隔てている.もちろん,戦後にアメリカによる占領支配を受け,沖縄の本土復帰は昭和47(1972)年 5月15日であることを振り返れば,その欠落は致し方ないことながら,完全に手がかりを失うことの失望は隠しきれない. 那覇を含めた沖縄南部の一帯は沖縄戦によって街は壊滅状態となり,かつ占領後の都市政策も相まって,那覇市の土地区画は大正時代の地形図と比較すると大きな変化を見せている. このため,当時の国道を定めることはほぼ困難なことは否めないが,ここでは昭和22年に撮影された米軍の航空写真と,昭和8年まで開業していた路面電車(沖縄電気軌道)との関連から,市内における軍事国道のルートとして以下の部分を推定してみた. まず,起点となる「那覇市西新町」は通堂(とんどう)町と考えられ,沖縄の要港としての那覇港とも面していることからも起点としての指定には困ることはない.電気軌道は,この通堂町を始発駅として,これより現在の国道390号と似たルートで旭橋に向かい,これより泉崎交差点付近まで北上,ここから「久米大通り」方面へ折れる. 現在,「久米大通り」は県道47号で,辻,若狭の境界で県道43号と交わりを持つ.当時の沖縄電気軌道はこの交点付近から泊埠頭まで直線的に道があった区間を走っていたが,国道特39号もこれに準じた道路が指定されることになったと思われる. 泊埠頭から読谷山村までは現在の国道58号のルートが凡そ対応するものとなっている.ただし,当時と大きく異なるのは北谷から嘉手納にかけてのルート.今となっては国道58号は嘉手納飛行場が海岸部まで押し寄せているため回り込むようにして道が作られているが,当時は北谷と嘉手納を南北に貫く道があった. 嘉手納には,国道の中でも珍しいロータリーがある.このロータリは戦後,それも昭和20年にアメリカ軍によっていち早く造られた道であり,当時の完成間もない頃の写真が一葉のこされいる. この写真を眺めると,放射状に5本の道が拡がりをみせている.現在の地形図と照らし合わせればこのうち4本まで照合ができ,残り1本は明らかに嘉手納基地によって消えてしまった道であることがわかる.嘉手納空港の建設着工の前から国道特39号はロータリーに改修されいた貴重な写真となっている. この模様は『読谷村史』に詳細が記されているが,国道特39号の制定時とも対応していることから,国道特39号は那覇市と読谷飛行場とを連絡する道路となる. 読谷飛行場は,現在では村民の生活道路として活用されているが,この飛行場も国道58号の地域高規格道路である沖縄西海岸道路の一環となっている読谷道路(読谷村親志−読谷村古堅)の延長にあることから消え往く運命をもつ. 【参考・出典】 角川日本地名大辞典 角川日本地名大辞典」編纂委員会,角川書店,1986 「那覇港修築工事施行の件」 公文備考 昭和11年 J 警戒計画 卷11,Ref. Code C05035219800 読谷村史 第5巻 資料編4 読谷村史編集委員会,読谷村,2002 読谷村の戦跡めぐり 読谷村史編集室,読谷村,2003 米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 01 資料コード(CD):0000013370,沖縄県公文書館 「「2004年測量の日」〜地図とおきなわの鉄道〜」 国土地理院沖縄支所,2004 [2007.04.21作成] |