国道特24号
起点 廣島縣賀茂郡廣村字大新開
終点 廣島縣賀茂郡廣村字津久茂
延長 1.2 km
制定日 大正9年12月25日

改正履歴 昭和13年12月28日
起点:「賀茂郡阿賀町」→「呉市阿賀町字小倉新開」
終点:「廣村」→「賀茂郡廣村字八郎」

昭和17年1月24日
起点:「呉市阿賀町字小倉新開」→「呉市本通三丁目」
終点:「賀茂郡廣村字八郎」→「呉市廣町字八郎」

全体図 Download : MR-24.trk (トラックファイル)
現国道185号 休山トンネル
2001(平成13)年に国道185号を通って呉の街を初めて訪れた時には,呉市本通と呉市阿賀中央を結ぶ休山トンネルは,まだ,完成していなかった.そして翌年の2002年年3月21日に開通.初めに,そのニュースを聴いたときは,普通の国道のトンネルが一つ増えたという印象しか抱かなかった.

それに先立つ2月6日,国土交通省中国地方整備局 広島国道工事事務所から「一般国道185号 休山新道開通式の開催について」という表題で記者発表がなされていた.

内容は式典のスケジューリングに始まり,開通区間の詳細地図などが掲示され,一瞥すると平凡なの原稿となっている.しかし,中段にかかるあたりからの「事業の概要」に転じていくと,

「休山トンネルは昭和17年,国道「特27号」として旧内務省が用地買収を始め,阿賀側で約150m掘り進んでいたが,第二次大戦の戦況悪化を受けて工事が中断された.」

とあり,さりげなくも実に型破りな一文が眼にとまる.

念のために一言付け加えるならな,リリース記事にある国道「特27号」と記されているのは明らかに「特24号」の誤植.そのような些細な誤りに気を留めなくとも,戦前の内務省時代の昭和17年まで遡る経緯を書き下した広島国道工事事務所の配慮に,その完成に至るまでの思い入れを感じ取ることができる.

元々,国道特24号は広村(現:呉市)から呉海軍工廠・広支廠への連絡区間が指定された線形となっていた.現在の国道185号から分岐して県道279号がそれに相当する.

国土地理院航空写真
写真名: USA-M144-A-4-10(撮影年月日 1946/5/24)
撮影地域 呉
撮影高度 1219 m

ただし,広支廠が正式に設置されたのは大正10(1921)年1月のことであるので,軍事国道が計画および制定された大正9年の段階では,かろうじて「計画路線」だった位置づけとなる.

その後,大正12年には呉海軍工廠から分離されて,支廠から「広海軍工廠」となり,主に航空部門の開発の拠点となった.組織上,最後の編成は昭和16(1941)年に第11海軍航空廠となり,戦争終結とともに解体された.

戦後は,広海軍工廠の跡地は東洋パルプ株式会社・呉工場へ.現在は平成元年に合併統合された王子製紙・呉工場となっている.

国道特24号は,二度の改定を行い,特に第二回目の改定では起点の大きな変更があった.昭和17年1月24日に起点が延長されて広から呉にシフトしたが,これは明らかに呉海軍工廠と広海軍工廠との連絡経路の整備を意識している.

異なった見方をするならば,昭和17年の段階で呉と広とを結ぶ連絡路さえ,まともに整備されていなかったことになる.参考までに広島と呉とを結ぶ国道32号(現:国道31号)でさえ昭和13年3月25日になって,ようやく全線の開通を見るようになったほど,幹線道路の整備は遅延していた.

国道の延長はまさに休山トンネル(当時は呉トンネル)の開削を計画するものであった.

用地の買収が始まったのは昭和17年,改定を受けてのことである.計画では全長が1.6kmのトンネルであったが,戦時下における工事は思うままに進まず,全体計画の1割も掘削できずに終わったとされる.その後,このトンネルは埋め戻され幻のトンネルとされた.

その幻のトンネルが再び人の眼にとまるようになったのは国道185号の「休山トンネル」として再掘削された時であった.1999年のことであった.

そして2年後,2kmにも満たないトンネルが完成したのは,計画から実に60年の歳月が流れた時のことになる.

【参考文献】
「呉鎮守府より呉海軍工厰広支厰に達する道路に関する件」 公文備考,レファレンスコード:C05034499800,大正10年1月
「道路改築許可に関する件」 大日記乙輯,レファレンスコード C03012149800,大正14年
「呉 広間 道路改築線路図 計画概要」 大日記乙輯,レファレンスコード C03012163300,大正14年
「呉市史」(6) 呉市史編纂委員会,呉市役所,1988
「呉市・国道185号休山トンネルの建設工事で戦時中の「呉トンネル」発見」 中国新聞,1999年12月22日

[2007.10.10] 作成