国道特1号 | |||||||||||
起点 | 千葉縣千葉郡 津田沼町大字大久保 |
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終点 | 千葉縣印旛郡 千代田村大字畔田 |
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延長 | 11.4 km | ||||||||||
制定日 | 大正9年12月25日 | ||||||||||
改正履歴 | |||||||||||
全体図 | Download : MR-1.trk (トラックファイル) | ||||||||||
現在の地図を探れば,何とも中途半端な場所が起点のようにも感じられるが,約100年前の明治34(1901)年に遡れば,ここ津田沼町大久保には騎兵第一・第二旅団が創設され,それに面して壮大な習志野演習場が広がっていた. 開設されて2年後に日露戦争が勃発,その折には,日本の騎兵隊の創始者となった秋山好古が第二代の旅団長となって奉天会戦に臨み,当時最強とされたロシアコサックを破る. 当時の陸軍としてはこの習志野一帯の中核となる津田沼町大久保は最重要拠点となっていた.それだけに,国道特1号としての指定の対象となったようにも思えてくる. 現在は旧騎兵第一・第二旅団跡は東邦大学習志野キャンパス,日本大学生産工学部,東邦大学附属東邦中学校,高等学校の敷地へと転換されている.また,旧騎兵第一旅団側は船橋市,旧第二旅団跡は習志野市と市制としても区切られてしまって大きな変遷を示している.
国道特1号は,これより旧来の「東金街道」であり現在の千葉県道69号(長沼船橋線)を進む.国道16号を越えてしばらくすると下志津に入り,ここから左側にカーブを描きながら四街道市街地に向かう. 終点の「千代田村」は現在の四街道市街中心部で,ここには明治30(1897)年に駅の北側に移転してきた陸軍砲兵射的学校があった.大正11(1922)年には「陸軍野戦砲兵学校」と改称するが,それまでの間に砲術のエキスパートを養成する一大拠点として変貌を遂げていった.
その過程における資料として,大正7年に四街道駅北側に更に野砲兵第十七連隊を移転させるための用地の買収にかかる公文書が残されており,ここでは最後まで立ち退きに応じない地主との交渉過程が記されているが,その記録は国道特1号の終点と関連する場所となっている. 「今般当省ニ於テ野砲兵第十七連隊移転地トシテ別紙図面ニ示ス地区内土地ノ買収ニ着手致候処着色ノ部分ニ該当スル千葉県印旛郡千代田村畔田字三角内ノ土地ハ買収ノ交渉ニ対シ不当ノ高価ヲ主張シ承諾ノ意思ナク(後略)」(「土地収用の件」 大日記乙輯大正8年) この問題となった土地は最終的に土地収用法による解決を図ることになったが,その土地収用の場所が陰影の平面図および地形図が添えられており,千代田村の「大字畔田」なる場所は現在の四街道一丁目を囲む三角地帯となっている. 大正5年の1/50,000の地形図では四街道駅の南側に「畔田」が刻印されているが,上記の公文書と併せると,現在の四街道一丁目から二丁目乃至は美しが丘1丁目一帯を含む場所が「千代田村大字畔田」としていた可能性がある. いずれにしても終点が旧陸軍野戦砲兵学校があった現在の四街道市役所前であった可能性が高く,このことから国道特1号は習志野と四街道を機動的につなぐ役割を担っていたことになる. さらには,「軍事道路改修に関する件」(大日記乙輯大正12年)や,「国道特1号線変更に関する件」(大日記乙輯昭和10年)にもあるように,習志野,四街道のみならず佐倉を含めた3軍事都市の連携を図る道路整備を目的としていた. ただし,その実情としては「国道特1号線変更に関する件」で千葉県知事からの請願に表れていて,昭和10年になってもまだ完全に供用できる状態ではなかった. 国道特1号の大部分は古来から東金街道として開削されていた優位性があっても,この状況であったことを考えれば,他の国道もしくはその後に認定を受けた国道たるものは名前のみで,路線としてはほぼ修繕が進まない 実体のない道が多かったこともうなずける. 【参考・出典】 「土地収用の件」 大日記乙輯大正8年,レファレンスコード C03011117300,大正8年 「軍事道路改修に関する件」 大日記乙輯大正12年,レファレンスコードC03011909800,大正12年 「国道特1号線変更に関する件」 大日記乙輯昭和10年,レファレンスコード C01006717600,昭和10年 [2007.01.07作成] |